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 <title>World Challenge Pulpit Series Newsletters</title>
 <link>http://www.worldchallenge.org/ja/pulpit_series_newsletters</link>
 <description>Publications from the World Challenge Pulpit Series Newsletters</description>
 <language>ja</language>
<item>
 <title>イエス様が見えます。</title>
 <link>http://www.worldchallenge.org/ja/node/8559</link>
 <description>&lt;p&gt;神はこの世の全て作られしものは人の権威の下にあると私達に仰いました。ヘブル書のこの言葉を見てください。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。あなたは彼を天使たちよりも、／わずかの間、低い者とされたが、／栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」すべてのものを彼に従わせられたと言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。（ヘブル2:6-8　新共同訳）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この箇所はこの地上の全て命あるものについての言葉です。即ち、日々の生活に関わるあらゆる事柄、農業、経済活動、国の統治などが人の手に委ねられました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;詩篇の著者はこの事についてこう述べています。｢これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。すべての羊と牛、また野の獣、空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも｣。(詩篇8:6-8)　ある翻訳ではこの箇所をこうも訳しています。｢あなたはあなたがこの地で創造した全てを彼等に委ねられました｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;聖書学者達は、この詩篇は主としてキリストについての預言を取り扱っていると言っています。真に、イエス様は人になり、肉にあって苦しんだ後、栄光と栄耀の冠を受けました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;聖書は御父が全てのものを御子の足の下に置いていると言っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、ヘブル書の著者はここで言っているのは命ある人を管理者としてあげています。そしたら、今日の世は人が治めて、どんな様子になっていますか。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;「物事は何かの権威の下に置かれているとは考えられ無い」と言うなら、あなたの判断は正しい。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;今、世界で何が起きていますか。この社会がどのような様子ですか。今私達が見ていることは、壊れかけた政府、乱れきった学校、右往左往する指導者、金融システムの瓦解、広まる失業、統制不可能な社会安全網、道徳価値の崩壊です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これらがこの世界で裕福な、先進国と言われる国で全て起きています。愛する皆さん、この事からこう結論付けざるを得ません。「人は全く統制できていない」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この事を考えて見て下さい。 今、この地球は原爆の大悲劇の瀬戸際に立つ可能性もあります。イランは原爆や原爆弾頭製造を他の国の制止にも関わらず止めようとしません。彼らはイスラエ ルを抹殺することを目指しています。イラン政府はこの世に彼等の救世主を齎すには混沌を作らなければならないと考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;簡単に言うと物事がどんな支配の下にいるのではなく、狂い始めているように見えます。これが、私達の周りを見ても恐れと混乱がある理由です。私達がまさに今見んとするものは地獄から悪しき者の洪水です。これこそキリストが言った、人の心が恐れでうろたえさせる洪水です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヘブル書の2章8節に私達の時代を指して、全てが全く統制されていない世界と表しています。しかし、そんな混沌の中で、著者が強調せんとしたのは次です。「イエス…を見る」（ヘブル2:9）の言葉です。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;この様な時に自分を固く保つにはどうするべきでしょうか。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;ヘブル書の著者は、私達の人生に起きた全てからイエス様を見出さなければならないと答えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ある人達は全てに主がいるなんて信じられないと考えるかも知れません。私の人生はめちゃくちゃだと感じているかも知れません。聖句にもそんな例があります。混乱によって信仰が揺らされ、自分の人生が狂わされた人達のことです。しかし、その中でも彼らは主を見出します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大きな試みに際しての使徒ステパン、ヨハネ、パウロはどうしたのでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ステパンは自分を殺そうと石を手に取っているキリスト嫌いの暴徒囲まれながらゆらぎませんでした。ステパンは自分の命は最早ない事を知りつつ、平安と静寂に満たされていました。この人の忍耐の秘密は何でしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その時、ステパンは証します。「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」。（使徒行伝7:56）彼の眼差しはイエス様のみでした。イエス様が一緒にいると知っていたからこそ、むごい死とも厭いませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;主を愛し、仕える全ての人達に、この率先は何か大きな重要な事が秘められていると思います。私達の苦しみや悩みの中でイエスを本当に見るなら、私達は「恐れるな」といわれるイエス様の声をきっと聞くことでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヨハネも然りです。晩年に、かの忠実な僕ヨハネはパトモス島に流刑されました。これは事実上、独房の状態です。使徒ヨハネは看守以外には誰とも接触できません。厳しい寒さ、飢えと辛苦の孤独の時でした。しかし、そんな試みの時、ヨハネは力強い主の幻を得ました。ヨハネは書きます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、『恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている』。」(黙示録1:17-18)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は自分がヨハネの立場だったらどうしただろうと想像してみました。この神の人にとっても疑問と迷いの時であったに違いありません。これ以上最悪と言えない状況に彼は居たのでしょう。しかし、そんな苦悩に満ちた僕に対してイエス様の一声は「恐れるな」でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パウロも然り、同じ状況を知っています。自分の裁判中に、パウロはイエス様が自分の横に立っておられる幻を見ました。パウロは自分が置かれた迫害の中で宣言します。「みなわたしを捨てて行った。…主はわたしを助け、力づけて下さった」。(2テモテ4:16-17)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ステパン、ヨハネ、パウロの状況はこれ以上最悪と言えない状況でした。しかし、夫々の人はその試みの中でイエス様を見出していると証ししています。では、愛するクリスチャンの皆さん、一つ聞きましょう。現在の状況であなたはイエス様を見ますか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この三人の人が言ったような事をあなたは言えますか。｢キリストは我と共に立っておられる。私の状況に関わらず私を力つけて下さる｣と。私達の時は、神の平安が真にあって必要な試み、闇の時に悉くキリストが共に居られる時代であると信じています。あなたの試みは病の一種ですか。失業ですか。未来での不安ですか。ハッキリ言います。｢イエス様はそこにも居られます｣。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;パウロが記しています。｢なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである｣。(1コリント2:2)&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;パウロが自分の師事するテモテに自分の時を問う表現したかに注意して下さい。｢兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官(Christ)を喜ばせようと努める-そして耐える｣。(２テモテ2:3-4)　言い換えれば、｢テモテよ、物事‐取引、心配、その他の何にも囚われて、キリストから目を逸らしてはいけない｣と言っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パウロの生き様のどこにこの事が示されていますか。第一にパウロは当時の神学議論に巻き込まれませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パウロは人々が右と左に分かれて、争った時代を生きました。そして、徒党を組み、その争いは殺し合いまで行くこともありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パウロはその様な争いにこう応えます。「私はこれらとは関係ない。私がいるのは唯、一つ十字架に掛けられ、蘇られたキリストに生き、語る為だけである。主の僕として、そんな事柄に巻き込まれる事を拒む」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パウロは、そして、テモテに次のように戒めざるを得ませんでした。「しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである」。（1テモテ4:1-2）&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;パウロはハッキリ戒めています。｢違う福音を語る人達が現れる｣。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;いかさま師はキリストの真の福音を曲解して人々に語ります。彼等は全く新しいイエスを発明します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今、偽のキリストが福音主義的な教会に於いてさえ語られます。彼等のキリストは悔い改めを求めません。同性愛や同性同士が結婚する事を認めます。これが、愛と柔軟性という題名の元での、偽の信仰の包容力のキリストです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時のパウロはそんな変質を大胆に、宣言して反対します。｢私は驚いている。こんな短い間に何があなたに起きたのか。あなたの多くがそんな邪悪な福音に惑わされるのが不思議でしょうがない｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パウロはこの事がとても重要なので、対処法を授けています。｢しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである｣。(ガラテア1:8)　これがパウロが語った、イエス様から目を逸らしたらどうなるかです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今の教会があるべき姿を私達は見る事ができません。全ては正しい権威の下にいないからです。この悲劇に私達が取るべき姿勢は何でしょうか。私達は本当のイエス、変わることの無いキリスト、全てに勝たれて立っておられるイエス見るべきです。これ以外には、私達が必要な時に人為的に作られた福音など微塵の平安も与えられません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パウロが言ったように、私達はこんなことで注意を逸らしてはなりません。私達は｢思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである｣。(2 コリント11:3)&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;パウロは当時の激しい政争に巻き込まれる事を拒みました。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;ある時にはパウロ自信がその党派を率いると見なされ、総督フェリックスの法廷で裁判を受けることさえありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パウロが法廷に出された時、彼は話にもならない罪状が彼に掛けられているのを聞きました。｢この人は熱心党（当時の政治一派）で、乱暴者で、色々な所でユダヤ人を扇動している。ナザレの異端、無法者である。彼はローマに謀反を起こすべく、沢山の人達を扇動している｣。これはパウロを反対する人達が掛けた罠でした。しかし、パウロはそこでそれより大きな罠を見ます。サタン自信がイエス様中心のパウロのメッセージから焦点を逸らし、ローマ帝国とユダヤ人との激しい闘争に巻きこもうとしました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;論客であるパウロは、その相手を負かすことは容易いことでした。しかし、彼は自分がその政治的な戦いに絡まれる事を拒みました。彼は自分が語っている福音のためにそのような選択をしました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やがて、パウロはアグリッパ王の前で自分を弁護することになりました。しかし、朝廷でパウロはキリストを説く事を選びました。彼はアグリッパ王に自分の身の危険さえも厭わずアギリッパ王に大胆に語りました。｢王よ、私は主の声を聞いた。私は馬から下りて、その名を聞いた。主は自分の名をイエスと言いました｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;王はパウロの話に動かされました。そして、かの使徒を裁かずに、パウロを皇帝の法廷に審理をするためにローマに送る事に決めました。パウロの移動の前日、主はパウロの側に立ち、言いました。｢しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない｣。(使徒行伝23:11)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その励ましだけでパウロは充分でした。当時の最も強大な権力者の前に立つとしても、パウロは｢イエスは全ての主である｣と言えたに違いありません。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;今もサタンは教会の中心であるイエス様からメッセージの争点を逸らそうとしています&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;サタンは神の民がそのメッセージから離れる事より望んでいることはありません。その方法の一つはクリスチャンを政治的な議論に巻きいれ、それに完全に巻き込むことをします。そしたら、そのことだけ、その人は話すことになります。イエス様は最早関心事ではなくなります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それは関心を傾けるべきものがあるでしょうが、心に憎しみをもって、キリストに似つかない活動に心が行く極端を犯してはいけません。心を乱す事無く祈るべきです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私達の主は主の平安を盗る何事も許してはならないと言っています。現に主は私達が主の平安に入りなさいと言っています。｢それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか｣。(ヘブル4:1)&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;このイエス･キリストの証しは私達がこの世でそうあるべきであるが、まだそうなっていない事を言っています。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;これは私達がそんな考えに加担しない、また入らない事を意味します。それだけではなく、私達が希望の道しるべ･証しとなる方法です。周りの挑戦的な人が私達に聞く時、私達は信仰と自信を持って答えるのです。｢イエスはわが望み、平和です｣と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の言った事を間違わないで下さい。私は政治的な発言をしているのではありません。かえって、私はクリスチャンに今日の政治の毒気づいた論争に巻き込まれないように戒めているのです。パウロはその行き着く先を見ていました。また私達も然りです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;政策や政治家が私達の心、考え、行動の中心ではなく、イエス様が中心であり続けるべきです。これらが重要でもありますが、これらが私達の中心から、キリストの福音を盗んでいく事があるのです。クリスチャンとしての私達の確信は、全ての国々が私達の主イエスの権威の下にあることを知ることです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私達の周り、この世は崩壊しています。しかし、私達はイエス様を見ます。私達はイエス様を全ての試みの中、見出します。私達はイエス様が苦痛、苦しみ、私達の叫び、全てに於いて共に立っておられる事を見ます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その先に、私達はイエス様が御自身の来臨に備えるべく、全てを用意しておられる事を見ます。ハレルヤ&lt;/p&gt;</description>
 <category domain="http://www.worldchallenge.org/ja/taxonomy/term/200">David Wilkerson</category>
 <pubDate>Wed, 07 Apr 2010 17:07:51 -0500</pubDate>
 <dc:creator>yohan_kanekoji</dc:creator>
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</item>
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 <title>今なお素晴らしいキリスト</title>
 <link>http://www.worldchallenge.org/ja/node/8201</link>
 <description>&lt;p&gt;パウロがイエス･キリストの教会について祈りの中でどう語ったか思い起こして下さい。祈りの中で「神が嘗ての偉大さだけではなく、今尚偉大なる事を示されるように」と彼は祈りました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パウロの実際の祈りはこうでした。「あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちが継ぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるかまた、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」（エペソ1:18-19）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;教会は嘗てこの地に居られたイエス様に畏敬を持っています。ガリリ人、マリアの子、教師らは奇跡の人の事です。私達はナザレのイエス･キリストの話に尽きる事がありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私達は、イエス様が如何に悪魔を追い出し、試みに乗り越えたかを覚えています。盲の目を開け、聴こえない耳を聴こえるようにさせ、力の無い足を跳ねらせ、萎えた腕をよみがえらせ、ライ病人を癒されました。水を葡萄酒に変え、僅かなパンと魚で大群衆を養い、一度のみならず幾度も、死人を生き返らせました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、歴史の中で、クリスチャンは今なお働かれる救い主の力を忘れ始めました。教会は物理的に存在する神ではなく、キリスト、霊の神の神学を正しいこととし始めました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;例えば、今、私達はイエス様が私達の罪を許し、罪責を降ろす事が出来ると信じます。私達はイエス様が平和と喜びと永遠の命を与えることを信じます。これらは目に見えざる、見えない次元での事です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、私達が今いるこの自然の世界の神としてイエス様を知る人はあまり多くありません。私達は日々の神として、夫々の家庭に、子供達に、夫婦関係の中で、仕事や生活を治めておられる神として知りません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パウロはキリストが死より蘇った為にイエス様の力の啓示が必要と言っています。今イエスは神の右に、天地の力が与えられ座しておられます。「『神は』万物をキリストの足の下に従わせた」。（1:22）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この文を読んだ時に、聖霊は私の心に力強い真実を悟らせました。「イエス様は以前にも増して力強い」。パウロによれば、キリストは「すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである」。（1:21）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もし、私達がこれを本当に信じるなら、私達に対するその意味は計り知れないものがあります。ガレリーのイエスは死とは拘りないとお思いですか。否、イエス様の力は、死を克服したことで明らかに証されました。死を治める力があることを何度も今まで示されました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう」（ヨハネ5:21）イエス様は単に｢わたしはよみがえりであり、命である｣と宣言しただけではありません。それを証明しました。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;イエス様が言ったよみがえりの命を信じますか。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;｢死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである｣。(ヨハネ5:25-26)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イエス様がこの事を言った時、最後の復活だけを言ったのではありません。イエス様は死んだ者を再び生き返らせ、命に満たす現在の力の事も重ねています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;事実、私達誰でも心に密かな墓場があります。私達が諦めた何かを、または誰かを埋めた墓場です。私達はそれを葬り、墓石を置き、その石に葬った日付けを書きます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の知合いの女性が自分の子供の卒業式に行った事を私達夫婦に話したのを思い出します。彼女の元の夫はずっと前に浮気して家を出ました。彼と彼の新しい奥さんと親戚一同がその卒業式に来ました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女にとって耐え難いものでした。その時点で、私達の友人の結婚は回復不可能でした。彼女は元旦那とその奥さんから僅かな距離に座りました。彼女の結婚の墓場に神は彼女を行かせました。彼女はその後、元旦那とその妻の救いを祈り始めました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何故、彼女はそうしたのでしょうか。彼女は彼が罪による死から蘇って欲しかったからです。彼女がキリストを知る故に、彼女は死に屈服することを拒みました。彼女は、イエス様は今尚働かれ、死から命を導き出す力を持っている事を知っていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;イエス様は死んだからといって諦める事をしませんでした。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私達の主は死から命を出だせます。全てに必要なのは主の御言葉、息です。そしたら死んだと思ったものが、諦めたと思ったものが命に帰ることです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は薬中なった16歳の娘を心配する父を知っています。彼女は嘗て純粋で、愛しく、お父さんと歩きながら信仰について話す娘でした。しかし、今や彼女は道に立って薬を買う為、体を売っています。彼女の体は蝕まれ、いわば生きていると言うより死んでいるといえるでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;父は娘を愛し、彼女の高校の写真を見て涙を流します。今や、彼は希望を捨てました。彼は人から｢あなたは…のお父さんですか。死体安置所に来て下さい｣という絶望の電話を待つに至っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、イエス様は死人を諦めません。イエス様は麻薬中毒の墓から彼女を救う全権を持っておられます。彼女のような何千人が色んな中毒から救われています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ある時、ヤイロという名の絶望している父が彼の死んで行く娘を癒す事をお願いしにイエス様に来ました。｢そこへ、会堂司のひとりであるヤイロという者がきて、イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し、しきりに願って言った、『わたしの幼い娘が死にかかっています。どうか、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください』。そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて行った｣。(マルコ5:22-24)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;明らかにヤイロはある程度の信仰は持っていたようです。彼はイエス様にお願いしました。｢その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください｣と言ったのは｢私の娘はイエス様が触れればいい。イエス様は全能であり、彼女を死から救う事が出来る｣という考えを表す、ヤイロの深い信仰を示す宣言でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヤイロの行動は現代の殆どのクリスチャンを示すものです。私達が大きな危機にいる時、私達はイエス様が唯一の望みである事を知っています。ですから、私達は主に願い、跪き、御慈しみと助けを求めます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イエス様は彼と一緒に行くことでヤイロの信仰に答えました。絶望した男の心に希望が一杯となったように思えます。それと同時にヤイロの心の恐ろしい考えも打ち消す事も出来せんでした。｢遅すぎるのでは。イエス様が一緒に来られるのは素晴らしい。しかし、もっと時間が欲しい。私の家への一歩一歩の間、我が娘の命はそれだけ縮む｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;危機の時、私達殆どはヤイロと同じ事を言います。｢イエス様、あなたが必要です。しかし、時間がありません｣。ヤイロはイエス様が誰か知らなかったのでしょうか。復活と命である事が心に刻まれているはずです。彼はその心配する心を｢イエス様は初めと終わりである。時間が必要なのではなく、御自身が必要なだけである｣と言って治める事が出来たはずです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;イエス様はヤイロに時間が無意味になるようにしました。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;主は死の時点でしか持てない信仰をあなたに望まれています。イエス様は復活の力にあって信仰を願っています。私が言っているのは、絶望を超える、死を克服する力を話しているのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヤイロの家にいた人達は限られた信仰しか持っていませんでした。彼等は死を超えられませんでした。娘の息が残っている限り、希望がかすかにである限り、イエス様は必要でした。彼らの考えは「イエス様は癒し主であると信じます。しかし、急がなければ、彼女は死んでしまう。死んでしまえばお仕舞いだ」でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これはどんな信仰ですか。この信仰の限界は絶望のところ、墓までです。そんな信仰は信仰とは言えません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヤイロの娘は死んでしまいました。誰かがその娘の脈をとって、死亡を宣言したでしょう。彼女の周りにいた人達の僅かな信仰も消えていました。消えた後やることは一つ、癒し主が最早要らないと知らせることです。イエス様に知らせを走らせました。「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。（マルコ5:35）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この「あなたの娘はなくなりました」の言葉で全てが終わったように見えました。「あなたの人生で死んだ状況」で似たような言葉があなたの耳元でこだました事がありませんか。「あなたがた、夫婦は終わっている。神様に頼んで何になる」。「その働きは死んだ。祈ってもしょうがない」。「あなたの子はぐれて、もうどうじようもない」。「愛した関係は終わった。忘れなさい」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうではありません。こんな言葉がイエス様には全く無意味です。死んだからとて、イエス様は諦めません。霊的死のことです。イエス様は私達が死んだと考えるものへの復活の力です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヤイロの娘のことにイエス様はどう反応しましたか。「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、『恐れることはない。ただ信じなさい』。」(5:36口語訳)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「このうえ、先生を煩わすには及びますまい」の言葉と何と言う違いでしょう。この言葉は「終ってしまったものを引き摺ってどうする。それは回復不可能だ。諦めなさい」。しかし、イエス様にとってはお仕舞いなどありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしヤイロがそんな話に乗ってしまったら、彼はイエス様にどう対応したのでしょうか。「主よ、有難う御座います。多分、あなたは善意であった事でしょう。もしかして、衣の房を触った、長血を患う女に構わなければ、我が子は生きたかも知れません。私はあなたを信じていました。娘が息があった間、家に着いたなら、彼女は生きたでしょう」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イエス様がラザロを癒すべく呼んだ時、イエス様が体験したのと同じ限られた信仰でした。｢マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、『主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう』。｣(ヨハネ11:32)この話が示しているのはマリアとその周りにいた人達の信仰の限界は死までとの事です。｢しかし、彼らのある人たちは言った、『あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか』｣。(11:37)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼らにとって、イエス様は死ぬまでしかイエス様は必要ではありません。マリアやマルタ、墓の周りにいた誰もキリストを復活と命としての信仰はありませんでした&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;ヤイロの家にイエス様が着いて、何が起きたのか。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その場面は悲劇の場面でした。混乱、恐れ、嘆きの場でした。｢彼らが会堂司の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをごらんになりました｣。(マルコ5:38)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イエス様が着いた時、人々はイエス様をまるで弔問客を迎えるように行動しました。彼らが互いに耳打ちしているのが聴こえて来るようです。｢少なくとも、葬式に来るだけの良心は持っていたのね。来ないよりはましね｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何故、多くのクリスチャンの歩みに問題が多いのか疑問に思った事がありませんか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何故そんな悲しみや嘆きがあるのでしょうか。それは私達が、イエス様が死した者を生返らすと信じていないからです。正直に言ったら、私達の多くはイエス様が正しい事をしていると信じていないことさえ認めざるを得ません。イエス様が命を私達に与える、計画を持っておられる事を信じていません。遅すぎて、手遅れと思っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな態度が、イエス様がヤイロの人達に希望を持ちなさいと言った時に出ました。「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。（5:39）そこにいた弔問客の反応はこうでした。「人々はイエスをあざ笑った」。（5:40）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その人達は疑っていました。その人達に私は聞きましょう。「あなた方は何を嘲笑っているのか。何故、諦める。待って。信じなさい。彼女は生返らされる。それがもともとの計画だったのだ」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この人達はイエス様が来るように待ち焦がれて祈っていた人達です。ほんの一時間前には、「イエス様が答えだ。問題をイエス様が解決する。言って連れて来るように」と言った人達です。しかし、その同じ人達がイエス様を嘲笑っています。その子が死んだ後、彼等はイエス様を無視しました。今や、イエス様は訪問客の一人でした&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;今も、私達の多くは疑う弔問客の群ではないでしょうか。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな私達ではありませんか。問題のときに神に叫びます。私達は神様に遅れないで答える事を要求します。そして、その答えが時間通りに来なかったら、私達はその弔問客となってしまいます。悪魔が勝利したように、悪魔の力の前に震え上がります。私達は「イエス様は負けてしまった。悪魔が終に勝った」と結論付けます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;キリストを絶望のところまでしか礼拝し、仕え、愛するだけでは充分ではありません。どうして、私達は希望がなくなったらキリストを信じられないのでしょうか。わたしは自分に聞きます。その事がなし得ないと見える時でもキリストを信じられないのか。これが人に可能なことだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イエス様があなたの状況に今こられたらどうだろう。イエス様はそこで何を見るのだろう。あなたは自分の状況を悲観し続けるだろうか。ヤイロの家にいた弔問客のような、心騒がせるのだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうではなく、イエス様に、「主よ、絶望的で諦めそうになっています。しかし、あなたは、ヤイロの家にいた時と同じ方です。あなたはこの問題を解決できる方です。あなたは復活であり、命です。あなたは死から命を見出す方です」と言いますか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヤイロの家でイエス様は何をしましたか。「しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた」。（マルコ5:40）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イエス様は誰と一緒でしたか。それは「みんなの者」たちが一緒でした。これは彼らがイエス様を信じた事を示します。それと共に娘の父母も同じです。そして彼等はイエス様が死より命を出でさせることを目撃します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;キリストは信じない者達に御自分の力を見せようとしませんでした。返って、娘を生返らした後、イエス様は周りの人達に言いました。「だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ」ました。（5:43）イエス様は見た事を話すなと、その奇跡はその部屋にいた人達の奇跡とさせました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;皆さん、イエス様はあなたの身の上に奇跡を起こす時、ヤイロの時のように、マリアやマルタの時のように、部屋に一緒にいた信じた人達の一人ですか。それでなければ外にいた人達ですか。イエス様が命にあって働く時は中にいたいと私は願います。信仰にあって中にいたいのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;イエス様は今、この時、御自身の復活の力をお示しになりたいと願っておられます。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私達の信仰は死という限界を超えなければなりません。私達は死を直面して、こう宣言しなければなりません。「イエス様は決して死んだように見えるものでも見捨てにならない。私達は如何に状況が絶望的でも、誰をも、何事も、何者も諦める事を拒む信仰が要ります」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;キリストは御自身の力によって私達を驚かされます。もしあなたが揺るぎなき信仰に立つなら、あなたはキリストの復活の命の栄光なる顕現のなかにいます。あなたと主だけが主の奇跡の深い働きを知るでしょう。同時に主は御自身の大いなる栄光をお見せになり、あなたは感動し、感激させるでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;聖書は、私達にもキリストにある同じ力に満ちた、復活の命が与えられていると言っています。「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」。神は私達の物理的力の朽ちる体に神の命の源を与えられます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった」。（コロサイ2:13）｢しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さるその大きな愛をもって 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし｣、(エペソ2:4-5)｢人を生かすものは霊｣です。(ヨハネ6:63)｢最後のアダムは命を与える霊となった｣。(Ⅰコリント15:45)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テトスもこの｢聖霊により新たにされ｣(テトス3:5)る事を言っています。｢こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる｣。（詩篇103:5)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神様ははっきり仰っています。聖霊が御自身の尽きることのない命を与えん為に私達の内に住まわれています。これがキリストの現在の偉大さです。キリストを信じなさい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたの状況は絶望的ではありません。信仰を保ちなさい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;&lt;/p&gt;</description>
 <category domain="http://www.worldchallenge.org/ja/taxonomy/term/200">David Wilkerson</category>
 <pubDate>Thu, 04 Mar 2010 11:49:34 -0600</pubDate>
 <dc:creator>yohan_kanekoji</dc:creator>
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 <title>自信を持ち続けなさい。</title>
 <link>http://www.worldchallenge.org/ja/node/8202</link>
 <description>&lt;p&gt;「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。『もうしばらくすれば、／きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない』。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「『わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、／わたしのたましいはこれを喜ばない』。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である」。（ヘブル10:35-39）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この言葉は痛めつけられ、試みられ、苦しめられるこの世のクリスチャンに対する言葉です。この聖徒等は神を恐れ忠実に歩んできました。彼等は主の来臨を待ち、悔い改めました。彼等はキリストを彼等の大祭司として、信仰の完全な確信に生きました。そして、彼等は主に繋がり続け、揺れる事無く彼等は証を持ち続けました。「約束を守られる」神を信頼しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、この聖徒達は全ての背教の警告を真剣に気をかけています。彼等は真理の知識を受けながら、意識的に罪を犯した信仰者は落ちて行き、「敵に食い尽くされる」事を知っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これを知ることは彼等の信仰の重要な部分でした。何故なら信じた当初から彼等は大変酷い迫害を受けていたからです。彼等は投獄されつつ、「嘲りの対象」となりました。彼等は色々痛めつけられました。人格が否定されるだけではなく、財産が没収され、裸のままに放り出されます。そして、リーダが収監され、牧する者もなくなります。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;何故、あのクリスチャン達は苦しまなければならなかったのでしょうか。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;あらゆる艱難があのクリスチャン達に「光に照されたのち」降りかかりました。そして彼等は「苦しい大きな戦いによく耐え」ました。（ヘブル10:32）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これが何を意味しますか。繁栄の神学が主張しているキリストとの痛み無き歩みに全く反するのではありませんか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;では、あなたは「何故、ある人達の生は安穏ですか。私が知る限り彼等には苦しみがなく、ただ豊かで、なんの問題もなく幸せに見えます」と言うかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな人達を見て、実際にあなたは「私はだめなのかな」と思うかもしれません。何故、わたしはイエス様に帰依した後、災難続きなのか。私の信仰が冷えて、生ぬるかった時は何もなかったのに、私が神様を真剣に従う前は楽だったのに。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたの答えは「光に照されたのち」の句にあります。「その光に照らされる」とは「あなたが光を見た」ことを意味します。苦しみの大いなる戦いが起きたのはあなたが自分をイエス様に開き、その光に包まれた後です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サタンは我々を、私達が受け、歩む光の強さによって攻撃します。少しの光のうちに歩く者は悪魔の国を脅かすことはありません。サタンは、光を愛し、キリストが備えられたものを受容れる者達に自分の「苦しい大きな戦い」を強いられます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな聖徒等は暗闇と何の関わりもありません。彼等は忍耐する者にせしめる信仰を握っています。彼等は信仰の確信にあって歩む兵士となります。それと同時に彼等の信仰の故に、彼等は悪魔からの激しい攻撃の的となります。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;敵はそんな兵士に洪水のように押し寄せます。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;サタンは、兵士達に自分の生活の全てが崩れるように見せます。彼等の祈りは妨げられ、天は真鍮のようであり、あらゆる所で困難に見舞われます。そんな時、彼等の心は「あなたは間違っている」と囁きます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなたは信仰が足りない。もし、あなたが義に立って信じたなら、イエス様にもっと近寄っていたなら、あなたの考えが悪くなかったなら、こんな事は起きないはずである。他の周りの人のように、立派に立つ筈である。あなたは豊かさを楽しみ、神の言葉がはっきり分る筈だ」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうではありません。艱難に見舞われたヘブル人は「神の約束にあって神に近付く」事を成さしめる真の信仰を持っていました。この書信で彼らは聖なる兄弟達とさえ呼ばれるほどです。（ヘブル3:1）この書簡を書いた人は、その人達が大いなる艱難の中にあって彼等の心が引き裂かれていた事を知っていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;簡単に言うとサタンの主な目的は、光を濡らし、暗くし、消してしまう事です。あなたが霊的暗闇から突然キリストとその聖さと高潔さの光に入る人を例に挙げるなら、私も必死で生き残りの戦いをしている人の例を挙げましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな戦いの人はあなたですか。あなたは今、その大いなる戦いを耐えていますか。愛する皆さん、そんな罪や疑いのために大いなる戦いがあるのは殆どありません。それがあるのはあなたがその光を受容れたからです。光はイエス様にある確信を与えます。あなたが光を受ければ受けるほど、あなたはイエス様をもっと信じるようになります。サタンが崩そうと思っているのは、キリストにあるあなたの信頼です。サタンはあなたの恐れや疑いによって、あなたを地獄の力で狙い撃ちしようとしています。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;ヘブル書の著者は、信仰者が耐え切れなくなったり、疲れたりすることに気付いていました。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;疲れているクリスチャンに、著者は「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」と言っています。（ヘブル10:36）著者は神に歩む人が疲れた時、サタンの最も効果的な武器は、神へ我慢し切れない事だと指摘しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その論理はこうです。暫く艱難が続くと、悪魔は「神様はあなたが神を信じている事を知っている。あなたは今尚信義を通している。神があなたを助ける意志と権能を今まで疑った事はない。では、神は今まで何をしているの。何故、あなたを助けない。これが忠実な僕の扱い方なのですか」との考えをあなたに植え付けます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;明らかに、かの聖なる兄弟の忍耐は切れ掛かっています。日々の戦いは激しく、それは止め処なく続いています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この類の戦略をサタンは今沢山の聖徒に使っています。サタンは人が神に待ちきれない気持ちを植えつけます。また、サタンは、「主はあなたが必要なものを与えるとは限らない、あなたは二流のクリスチャンで、何時まで立っても這い上がれない」といいます。彼は「あなたは失業して、家もとられるよ。あなたの祈りや信頼は虚しいだけだ。あなたの信仰は失敗だ。皆諦めなさい」と責め立てます。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;ヘブル書の著者がかの苦しむ聖徒に言った事を考えてみて下さい。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;こんなことを苦境の中にいる人達に言えるのでしょうか。彼らは一文無しとなり、這い上がろうと久しく戦いました。彼等は上の人にこう言われました。「あなたは忍耐が足りない。信じて待ちなさい。約束は成就されます」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;知りませんが、私はかの信徒の中で一部は「忍耐が要るとは何だ。今まで呟かないで耐えて来たのに。私は蹴られ、見世物にされ、打たれ、辱められたのに。一文無しで家なし。苦しんでいる友人の情けで生きている。にも拘らず、私は静かな喜びと信頼で戦いを耐えて来たのに、私が忍耐が要るとはどう言う意味か」と考えたとしても責められないでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神の忍耐は神の時を待つ意志を言います。聖霊の時というものがあるのです。「もうしばらくすれば、／きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」。（ヘブル10:37）この句は唯キリストの再臨のことだけを言っているのではなく、キリスト自らあなたの必要を満たすためにあなたに来ることも意味しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神にとって遅すぎる事などありません。マリアとマルタはラザロが死んでしまって遅れたと思いました。彼女達は言いました。「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。(ヨハネ11:12)言い換えれば、イエス様、あなたは遅すぎたのです。期限が過ぎています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この言葉にどれ程主が傷付けられたか考えて下さい。主は彼らに暗にこう言っています。「私は遅くない。ラザロは生き返るだろう。私がここにおり、私が復活である。全ての命はわたしにある」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヤイロの家の人達も同じようにイエス様が遅すぎたと考えました。有力者である彼に人々はいいました。「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。（マルコ5:35）これも同じ事を言っています。「イエス様は遅すぎる。もう手遅れだ。必要な時には答えない。裏切られた」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;遅過ぎる。主に限ってそんな事は決してありません。あなたはもう諦めて、失意に浸ろうとするかも知れません。しかし、私達の父は愛に満ち溢れているので、無から何かを作り出す事をしないでいられません。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;深い失望と苦悩は、イエス様が最も心がけている者からをも、来る事があります。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;マリアとマルタはイエス様に対する信頼を失いました。ヤイロの家族も信頼を保つ事が出来ませんでした。彼等はイエス様がほったらかしで、遅過ぎると考えました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、「起きよ」との一語とによって、その瞬間全てが変わりました。その一語だけしか主は要りませんでした。主が一言を宣えば、全てが変化します。サタンはその掌握を緩めざるを得ません。死はあなたを離れ、命が溢れ、天の約束は成就されます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;愛する皆さん、どんな事があなたにあるにしても、主の一言で、悪魔は砕かれてしまいます。被造物は揺らされ、突然、あなたが求めた答えをあなたが持っています。では、あなたの願いは何故また答えられていないのでしょうか。あなたの苦しみは続けられているのでしょうか。何故、ある神の聖なる民は望みなしに見えるのでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それについて私が知っているのはこれです。そんな叫びによって、神の民は信仰が増し加わるか、その信頼が地に落ちるかの一つです。「もし信仰を捨てるなら、／わたしのたましいはこれを喜ばない。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である」。（ヘブル10:38-39）&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;主は肉にある全ての信頼を取り除き、主にある信頼だけにしたいと欲されているのです。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;もし私達が正直な気持ちを吐露するなら、私達は必要な時に人間へ信頼を屡置く事を認めざるを得ません。私達は牧師、カウンセラー、友人、妻や夫に答えを求めます。私達は問題を解決すべく何時間も、何日も、果ては何週間も費やします。そして、その解決策が速やかに来ないなら、力尽きる処まで私達は色んな角度からそれを解決しようとします。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クリスチャンの人も度々「これが出来たら」とか「彼が私のことをいい風に言ってくれたら、うまくいくのに」言います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人の助けはあるに越したことはないですが、私達は天使が現れ助けるとか、助け舟が来ることを待つべきでしょうか。パウロは言いました。「キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたち」。（ピリピ3:3）　神は、私達が人間の方法を尽くし切り、神のみぞ助け給う事を求めるまで、待っておられるのは私達の魂の故です。神は確かに私達の生に人を用いますが、神がどの様に人を用いるかは、御旨のままにしなければなりません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「主に寄り頼むは人に頼るよりも良い」。詩篇（118:8）「あなたがたは隣り人を信じてはならない。友人をたのんではならない。…しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。わが神はわたしの願いを聞かれる。」（ミカ7:5,7）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パウロは肉が無力なのを全て知っていました。彼は自分が賢くないと認めています。彼に批判的な者達は彼の説教を聴くに耐えない、言い換えれば、彼は退屈だと言っているのです。しかし、パウロはそんな批判に動じませんでした。何故なら、彼は自分の肉を信頼していなかったからです。彼はイエス様がその聡明さや能力、指導力などで戦われてない事を知っており、父にだけ信頼を置いたのを知っていたからです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パウロはコリントの人達に言います。「あなたに私は肉の勇ましさとか自信を与えない。それをあなたに植えない。私達は肉で歩むとも、肉によって戦っていないからである」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言い換えれば、私達は自分自身を奮い立たせ、自信をつける必要がありません。私達はまたお世辞などは要りません。この夜のどんな人の能力であっても、サタンが掌握しているものを何も取る事が出来ません。「それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」。（１コリント1:29）&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;ヘブル書の３章１４節に、イエスを堅く信じ続けた者に与えられる素晴らしい約束があります。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである」。その心はこうです。「私が主にある揺らぎない信頼を保つなら、主だけで私達の必要を満たして下さる。他を見る必要は何もない」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」。（ピリピ4:19）私達は約束されています。「全ての栄光の豊かさはキリストにある。キリストにあって満たされる。あなたが必要な全て、あなたの必要の源、神はキリストにあってあなたに賜う」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あるクリスチャンは自分達に必要な源がイエス様である事を疑います。彼等は、自分等に必要な全てを神が与え給うとは信じ切れない、確信し切れません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神は私達が必要なものを知っておられます。「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」。（マタイ6:8）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神は真にあなたのことを気に掛けて折られます。あなたが必要なものも御心に留められています。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」。（1ペテロ5:7）神があなたのことを省みると言うのです。あなたが長く試みられているので分らないかも知れませんが、今尚神はあなたが体験する全てを、あなたの仕事、家族、子供、人間関係など、気に掛けて折られます。それは全て神にとってとっても大切なことです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである」。（ヘブル10:35）神は言いました。「信じ続けなさい。私は報いるものである」と。簡単に言うと「信じ続ければ報われる」。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」（11：6）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたは真にキリストにある喜びを得たいのですか。では、あなたは全幅の信頼をキリストに置くべきです。揺れてはなりません。ただその約束だけを覚えてください。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、／わたしのたましいはこれを喜ばない。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である」。（10:38-39）&lt;/p&gt;</description>
 <category domain="http://www.worldchallenge.org/ja/taxonomy/term/200">David Wilkerson</category>
 <pubDate>Thu, 04 Mar 2010 10:34:25 -0600</pubDate>
 <dc:creator>yohan_kanekoji</dc:creator>
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<item>
 <title>神の人になる</title>
 <link>http://www.worldchallenge.org/ja/node/7704</link>
 <description>&lt;p&gt;私は皆さんに神が大きく用いた3人の事、特に神が彼等の問題によってどの様に導いたかを話したいと思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私達はしばしば人がどの様に成功したかを話します。聖書での成功はこれとは全く異なるものです。神様がその時代の人々を導くべく用いた人達を見たら、彼等は苦しみ、悲しみ、苦悩、失敗を通して、またその事を利用したのが判ります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神の人ヨブを考えてみて下さい。彼は根本的事を誤解していました。ヨブは自分の正しさを宣言しました。｢私は人に悪いことをしたことがない。今まで、善き者であった｣。聖書を読んで行くと、何故彼の様なプライドを持った人を神が買っていたのか疑問に思えるでしょう。ヨブは善人で、悪を行わなかったとしても、彼は自分が正義であると考えていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;次にダビデを取りましょう。彼は道徳的に失敗した人ですが、偉大な神の人となりました。人々はダビデがした事に驚愕します。そんな神に忠実な人がそんな不道徳な事をできるのか。かの王は灰を被り、悔いました。聖書が｢神の心を求めた人｣としている者がどうやってそんなに迷い出たのでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最後にペテロはどうでしょう。彼は召命を捨てた人です。ペテロは幻が与えられ、何をすべきかの任が与えられました。彼だけにキリストが御国の鍵を与えられるほど信頼されていた人でした。しかし、その同じ人がいざという時には、彼が愛したキリストを拒み、呪ったので、丘の上で悲しみに暮れる羽目になりました。そんな失敗にも関わらず、ペテロは、新約教会が誕生した五旬節で神の代弁者となりました。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;神の人に成らしめる力は何でしょう。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;&amp;#160;イエス様に従う者達が共通に持っているのは何でしょう。私達の命に神が触れるのを願うのであれば、私達の内側の何と戦わなければ成らないのでしょうか。神が私達を義とするためにそんな力や状況を使うのでしょう。あなたは通るべき試練を甘受する覚悟がない限り、｢イエス様、私を用いて下さい｣とか｢私に手を置いて下さい｣など軽々に祈るべきではありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は昔から今に至るまでたくさんの宣教師達の伝記を読みました。神に用いられたかの尊い人達には愛と力と喜びが何時も溢れていると思うでしょう。そうではありません。彼等は悩み、落胆し、ヤコブのように狡猾な時さえあります。彼等の旅路は刺激に満ちた冒険の代わりに涙の話です。多くの人が、｢私は救いようのない罪人だ。私は揺れ動いて、心定まらない。こんな私を神が使うだろうか｣と落胆し、夜毎涙を流し、疲れ果てているのを読みます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もし、私達が本当に神の人となる力を知りたいと願うのなら、私達はゲッセマネの園でのイエス様の例に倣わなければなりません。ヨブを攻め立てた全ての力は、キリストを責めるべくそこにありました。同じように、宮殿の屋根でダビデの心を｢試みた者｣はイエス様を宮の頂に連れて行き、挑戦した｢試みた者｣でした。ペテロの魂を絶望させた苦悩の力は、ゲッセマネで私達の救い主を試みました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;皆さんは知るべきです。キリストは私達の弱さ、感情を全てを体験しておられます。キリストが体験していない試みを私達が体験することはありません。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;　神の僕となる為に、ある時には苦しみの杯を甘受するべきです。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;真の神の人であるなら、何れ苦しみの杯が訪ねてきます。キリストは園で祈りを考えて見てください。｢わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい｣。(マタイ26:39)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;キリストの全ての働きは御父の御旨を行うことでした。事実、働きの三年間、キリストはカルバリに向けて歩みました。そしてゲッセマネで摂られた杯はイエス様に血を汗の様に滴らせました。｢お、神よ。出来る事ならこの重荷を除いて下さい。それは重く、背負いたくありません｣と叫びました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヨブが苦しみの杯が与えたれて時、彼は｢私は苦しい。私には道はなく、私の涙は私の腫れを洗っている｣と叫びました。ダビデが彼の苦悩の杯を飲んだ際は、彼の寝床は涙で濡れました。｢私の胸と骨は苦しみで腐りました｣。私は二人が言っている事にイエス様の言葉を見出します。｢主よ、出来ることならこの苦悩の杯を私から取り除いて下さい｣.&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたの苦しみの杯がどんなものであるかはわかりません。あるクリスチャンは苦しみの杯から救いを祈ります。私はその癒しの事を反対しているのではありませ。しかし、物理的な癒し以外にも試みに対する癒しもあるのです。ダビデは証しています。｢わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります｣。(詩篇119:67)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;全ての試みや痛みを悪魔からの攻撃と考えたり、私達が罪の為に裁かれ、試みがあると考えたりしてはなりません。ダビデはそれと異なり、｢もし、彼が試みに会わなければ、主を求めてない｣と言っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ではあなたは神の人と成りたいと願っていますか。主の御手があなたに置かれることを欲しますか。あなたにきっと苦しみの杯が与えられる事を明言します。物理的な痛みよりももっと激しいものことです。それは例えば友達に裏切られる、傷付かれる事です。それは子供達が親の心を踏みにじり、離れて行く時の親の痛みです。それは夫と妻が心の塀を作る時の痛みです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いやおうなく眠れない、休めない夜、悲劇の混乱が来ます。たとえ、あなたが神が真であり、あなたが御霊と共に歩くとしても、あなたがあなたに内に居られるイエスを愛していることを知っているとしても、苦しみの杯を飲まざるを得ません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私達はこの杯から逃れられません。イエス様を従うから全て幸福になると愚かに考えてはなりません。聖書は私達に全ての喜びを数えなさいとの態度をとるように言っています。また、｢義人には試みが多い｣書かれています。神は私達を試みから救うと約束していますが、その試みを通る時苦しまないとは言っていません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テロは自分の肉でその試みに対抗しようとしました。彼はゲッセマネで剣ととって、イエス様に言いました。｢主よ、あなたはこの試みに会う必要はありません。あなたが逃げる間、私が時間稼ぎをします｣。同じような態度を今の多くのクリスチャンも持っています。彼等は手に剣を執って｢これを通る必要はありません。私の神はよい神であるから｣と言って、試みを避けようとします。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神様は確かに忠実な方です。しかし、私達は各々苦しみの杯を逃れる術はないとイエス様は言っています。イエス様はペテロに言いました。｢剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか｣。(ヨハネ18:11)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたはこの杯を与え給う唯一の方を信じるなら、あなたの苦しみの裏のその御旨を知るなら、あなたはそれを飲む事ができます。もしかしてあなたは火傷を負い、傷つけられるかも知れません。しかし、あなたの父がその杯を持っています。恐れてはなりません。あなたが飲むのは死ではなく、命です。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;神の僕は混沌の夜も耐なければなりません。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;イエス様はゲッセマネで言いました。｢｣。(マタイ26:38)神の御子が混乱しているなど考えられますか。御子は愈々死と地獄への勝利を宣言する事を知っていなかったのでしょうか。御子は御父が共に居るという導きと定めを直感的に知っていなかったでしょうか。御子は預言の力によってそれから御自身に何が起きるか知らなければなりませんでした。実際、御子は弟子達に言いました。｢わたしはあなた方とながっくいない｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今までのクリスチャンの方々は最後の半時が信仰にとって最も難しいと言っています。それに私は、勝利の前には混沌の夜は必ず来ると付け加えましょう。暗闇が明け、曙の光が射すように。言い換えればサタンの全ての力が破られる前に、あなたは混沌の漆黒の夜を体験します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その時、あなたは目的や導きを見出せません。あなたがそれまで頼りにしていた神の霊の導きが消えてなくなったように見えます。ヨブは｢私が右に曲がっても彼はそこにいなかった。私が左に曲がっても彼はそこにいなかった。主が働かれているなら、私には見えない｣と告白したのはこの事です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ダビデはその混沌の夜に叫びました。｢私に暗闇が押し寄せ、私の目は闇です｣。ペテロの混乱の夜には主を呪うように誘われました。そんな彼等の叫びは、根本的に｢何故私ですか｣という今日の多くのクリスチャンの叫びです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヨブはペテロと同じ思いを持ちました。｢私は私の肉の働きを信頼しない。私の間違いを否定しないし、わたしは正直であった。私は私の真実を守った。では、何故私なのか。何故こんなに道標を失ってしまうのか。何故苦しまなければならないだろうか｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼が言っていることは今の多くの信者が叫ぶ｢私は人を欺いたくなど、その種の不正はしませんでした。では、いまあなたの導きは何処ですか。なぜ、混乱の夜が来たのですか｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;強大な王国の主権者であるダビデ王が預言者ナダンに諫められる場面を考えて下さい。その罪が白日のもとにさらされる恐怖はどんなものでしょうか。ダビデはナタンが言った悪事をした者が誰か分りませんでした。実際、その時、ダビデは混乱の夜に、何故自分がそんな愚かな事をしたかを捕らえて素晴らしい詩篇を三編書いています。彼は唯｢私には到底理解できない。私の罪が私を捉えた。何故、私に｣と言う外ありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;教会の多くもダビデのように道徳的な問題を持っています。彼等の混乱の夜に、彼等は｢神よ、何故私ですか。私の罪が私を捉えた時、私の心はあなたを求めていました。私の魂は今や汚れてしまいました。私には理解できません｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神にそれまで大きく用いられたからと言って、答えがあると考えないで下さい。私も混乱の夜に天の沈黙がどんなものかを知っています。混乱の時、導き無しで歩むのかどんな感じなのかも知っています。それまでの導きの徴や判断は役に立ちませんでした。私には道を見出す事が単純に出来ません。主に叫ぶだけでした。｢主よ、何が起きているのですか。どうすればいいかが分りません｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私達全てにそんな夜が訪ねられます。しかし感謝してください。それは何れ過ぎ去ります。主は私達の道を開けたいと願っています。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;最後に神の僕は孤独の時を耐えなければなりません。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;イエス様はゲッセマネの園で叫びました。｢我が神よ、我が神よ、何故あなたは私を見捨てたのですか｣。神の御子、イエス様の唇からこんな言葉が出ると考えられますか。ヨブも似たようなことを言っています。｢神は私を酷く扱っている｣。ダビデも同じ事を問います。｢神は御自身の慈しみを忘れたのだろうか。私より慈悲を取り去ったのだろうか｣。そして、ペテロは自分ひとりでサンヘドリンの外の火にあたりながら、苦りきっていった。｢私はその男をしらない｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その孤立の時には誰もあなたのことが理解できる友達が誰もいません。その時は神は御顔をあなたから隠されたと思えます。あなたは問います。｢神がその愛するものから暫く御手を離し、御顔を隠す事が本当に出来るだろうか｣。御言葉は答えます。｢人の心にあるものがどんものであるかを探すゆえに神は人から隠れ、人を試みる｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今まで以上に私にとってイエス様は身近です。ですが、あなたの祈りに天が真鍮のように答えないのであればあなたの心の怖れは察して知るものがあります。そんなときには怖れと虚しさだけが漂います。あなたの心は叫びます。｢神よ、あなたは何処なのですか｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これが何か不思議に聞こえますか。あなたはこれまでそんな危機を体験した事がありませんか。であるなら、あなたは今までゲッセマネにいた事がないと言えるでしょう。神はその闇の時間に御自身について｢怒りの時に我は自身を隠す｣と仰っています。しかし、神は同時に約束しています。｢我は慈しみと恵みをもってあなたに戻ろう｣。そして、神はその慈しみを私達の孤独の時でさえ注いでいるのです。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;苦悩の杯、混乱の夜、孤独の時を耐えた僕等には何が待っているのでしょうか。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;ヨブの孤独の時はこう終わりました。｢主は我のとる道を知られます。主が我を験し終えた時、私は純金のように尊ばれる。我が信頼を主に置いたからである｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ダビデは混乱の夜に宣言しています。｢我は永久に主の慈しみを歌う。我は声を上げて主を賛美する｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;五旬節の時、ペテロは自分の失敗に留まらず立ち上がって、何千人の人を主に帰依させる説教をしました。その僕こそが、イエス様がこの世に宣言すべく選んだ使徒です。｢あなた方が見ているのは、かつて預言者ヨエルによって約束されたものである｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私達はこの三人全員神の忠実な僕であることを知っています。主はヨブが義人であると認めていますし、主はその兄弟の中からダビデを自ら選びました。そして絵いす様は御自身でペテロを呼びました。｢来て、私に従いなさい｣。そして、この愛され、選ばれた僕達は人の限界を超える大いなる試みを経ました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;古い賛美歌の一句を思い出します。｢影の何処に立ちなば、イエスはみえじ｣。愛する皆さん、私の戦いは家ではありません。妻を愛し、子や孫にも恵まれています。私の戦いは友達へでもありません。私は全世界に私を喜ぶ友がいます。また、私の戦いは信仰でもありません。今嘗てこれほどまで主を愛したことはありません。イエスをこれほど欲した事はありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;戦いの場が何処にあるのかを教えましょう。私が｢主よ、私を用いて下さい｣と祈るほど、悪魔の力が私へ向けられる事を感じます。私が人々がイエス様を信じるように祈るほど、人の魂を得るために祈り、証しようと励むほど、イエス様がそうであった様に圧迫されます。私は主に叫びます。｢主よ、飛べるように翼を下さい。そうすれば、私は苦痛の杯、この魂の試みから逃れるでしょう。神よ、耐えられません｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;古のヨブ、ダビデ、ペテロの様に、私はそのお方を信じます。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;人が神の人に変わって行く時、私達の敵は激しく攻撃します。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;今あなたは苦しみの苦い杯を味わっている時かも知れません。あなたはもしかして、混沌の暗闇の夜や孤独の苦悩の時間を耐えているかも知れません。しかし、私はかの人達がその暗闇の時にした事、信仰に立ち続けることをして下さい。彼等が言った事を言ってください。｢たとえ、試みられ、私に全ての力が立ち向けているとしても、私は私が信頼する方を知っている。そしてその方は、災いの日にその方と繋がり続けるとわたしは約束したので、私を保って下さると知っている｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたは今喜べないかも知れない。あなたの魂は平和が溢れないかも知れない。返って、あなたの魂はうろたえているかも知れない。もしそうでなるなら、御言葉にかたく立ち続けなさい。その事を自分で解決しようとするのは止めなさい。それを潜り抜ける道は、唯一ゲッセマネの道です。｢涙で夜を明かすかも知れないが、喜びは朝に来ます｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;キリストにある多くの兄弟姉妹達が私に失った愛、長すぎた悲劇、終わりのない試みの悲しい話をします。しばしば彼等の試みは終わりがないように見えます。人の目では、それは動かしようのない絶望的な状況に見えるかも知れません。彼等には人生は、時折稀の幸せをちりばんだ苦しみと疎外の連続にすぎないでしょう。彼等は主に聞き始めます。｢この暗闇は終わることなどあるだろうか。私は試みの人生と運命付けられたのではないか｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;尊い聖徒よ、私が保証します。神はあなたを忘れていません。神はあなたが流した涙を数えておられます。何年か前に私はこの事を最初に分かち合った後に、あるキリストにある姉妹が話し始めました。彼女は私に言いました。｢今朝、私が教会に来た時にはとっても爽やかな気持ちでしたが、あなたが苦しみの杯を話し始めた途端、私の中は泣きました。実際に私の夫は出って行ったきりで、子供達は荒れています。私は自分の苦しみを隠して蓋をしていました。しかし、現実には私の魂はずさんでいます｣。私は彼女とその時、神が御自身への信仰を彼女に強めてくださるように祈りました。彼女は、彼女が誰を信じているかがわがったので、力付けられて行きました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;聖徒の皆さん、あなたの戦いの中で、イエス様をあなたの歩みの喜び、希望にして下さい。イエス様御自身があなたの心を変えて、あなたの状況があなたの霊を押しつぶすことないようにして下さい。神はそんな時、私達が最も変わる事をも知っておられます。そして何が起きても、あなたは自分を保ち、御国にて神と共に座しましょう。あなたは不可思議な愛の対象です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;訳　兼小路　添削　星野まり&lt;/p&gt;</description>
 <category domain="http://www.worldchallenge.org/ja/taxonomy/term/200">David Wilkerson</category>
 <pubDate>Fri, 12 Feb 2010 16:11:05 -0600</pubDate>
 <dc:creator>yohan_kanekoji</dc:creator>
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 <title>神は決してその民を見捨てない。</title>
 <link>http://www.worldchallenge.org/ja/node/7516</link>
 <description>&lt;p&gt;「主は公義を愛し、その聖徒を見捨てられないからである。正しい者はとこしえに助け守られる。しかし、悪しき者の子孫は断ち滅ぼされる」。&lt;cite&gt;（詩篇37：28）&lt;/cite&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ルカの22章 では、イエス様はもっとも熱心な弟子達に厳かに戒めています。キリストは弟子ペテロを呼び、はっきりと仰いました。「シモン、シモン、見よ、サタンはあな たがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」。&lt;cite&gt;(ルカ22：31-32)&lt;/cite&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サ タンがペテロを試みようとした事を驚くクリスチャンはあまりいないでしょう。特に聖書はペテロを弟子達のリーダを示していますから。悪魔がこの勇ましい弟 子を試みる神の許しを得ようとしたのは驚くに値しません。聖書はサタンの主な目的はイエス様に使える者達の信仰を砕く事であるとはっきり示しています。イ エス様の12人の内弟子の中でもペテロはキリストにある信仰によって行動する人でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、ここに多くのクリスチャンが期待しない事実もそこに含まれています。それは、主が沙汰にペテロを試みる許可を与えた事です。そうです。私達の天の父は彼の尊い僕が悪魔の策略へ掛けられる事をお許しになりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考 えてみてください。イエス様は既にペテロの信仰告白がご自身の教会を立てあげる基礎にすると仰いました。それにも拘らず、キリストはペテロをサタンの火の 矢に晒す事で御自分の言葉が虚しくなる危険を犯しています。ペテロのように大胆に信仰告白するとしても、彼が間違いだらけの人であることも私達は知ってい ます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もし、ペテロが試みに負けるならどうなることでしょう。キリストはサタンの攻撃に脆い誰かの言葉の上にご自身の教会を立てるのでしょうか。その上に、愛に満ちる神がその愛する者をそんな厳しい目に合わせたのでしょうか。これが沢山のクリスチャンが持っている疑問です。の愛する者をそんな厳しい目に合わせたのでしょうか。これが沢山のクリスチャンが持っている疑問です。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;ある信仰者達はこの天の父のやり方は全く理解できません。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;教会の多くの人達にとってこれは、慈しみ深い神がなさると、受け入れ難いものです。しかし、聖書はペテロに起きた事が主に愛された多くの信仰深い者達に起きた事を示しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;例 えば、これがヨブに起きた事と全く同じことです。かの義人がどのようなことになりましたか。財産、家、自分の尊い子等さえ失いました。ヨブがこれらの苦悩 の喪失に苦しんだ時、彼の敬虔な友等が戸惑ったのは驚くに当たりません。彼等は神がその忠実な僕をサタンにそれだけ激しく試みさせる事が受け入れられませ んでした。彼らはヨブがきっと何かをしたのでこのことが起きたに違いないと思っていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、そんなことはありません。ヨブ書の最初に、サタンはヨブを試みる神の許しを得ようと天に入る場面が描かれています。そして、神はそれをお許しになりました。神は悪魔に正しい人を苦悶の試みに、彼の信仰の限界まで試す苦闘を許可しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;愛 する皆さん、聖書の沢山の例が明らかにしています。サタンが神の僕（義なるヨブと熱血のペトロを含めて）の信仰を試みるためには天の父の明確なお許しがな ければなりません。私達は神の言葉が昨日も、今日も、永遠に変わらないと示されたように神が変わらない事を知っています。&lt;cite&gt;（ヘブル13:8）&lt;/cite&gt;ですから、かの愛された僕に起きた事はイエスを告白する全ての人に起きると考えなければなりません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、この事を気に留めてください。サタンは主の許しなくして神の子の信仰を決して揺るがしたり、試みる事ができません。この事は何を意味するでしょうか。単純にこれです。「神はサタンが私達を試みられる時、毎に意味と計画を持っておられます」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;真にイエス様がペテロを戒めた時、イエス様はかの弟子を素晴らしい言葉で励ましました。「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」。&lt;cite&gt;（ルカ22:32）&lt;/cite&gt;明らかにキリストはペテロがその試みに於いて自分の信仰を失わない事を知っていました。これはイエス様が、ペテロが直面した激しい試みに明確な計画があったことを示します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それは今の私達にとっても同じです。イエス様がかの弟子の為に祈ると約束されたのは単にペテロだけではなく、後の世代でキリストを従う全ての人にしたことです。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;たくさんの聖書箇所で、キリストの警告は繰り返しされています。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;黙示録はサタンが終わりの日に自分の時が短い事を怒り、地に下ると記しています。そして、いまやサタンはあらゆる方法で聖徒達を攻撃しています。「悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。&lt;cite&gt;（黙示録12：12）&lt;/cite&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、私達は仇「サタン」が吠え猛る獅子の様に食い尽くすものを求めている事も知っています。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」。&lt;cite&gt;（1ペテロ5:8）&lt;/cite&gt;言い換えれば、悪魔の目的は神の選民の信仰を無くし、飲み込むことなのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じように、サタンは全ての」信じる者に対して盗人のように来ると言われています。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない」。&lt;cite&gt;（ヨハネ10:10）&lt;/cite&gt;そんな盗人は犠牲者から盗むだけではなくその信仰を根絶やしにしようとします。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最後に、私達はサタンが戦慄する恐れととてつもない攻撃によって私達の信仰を押し流そうと洪水を神の人に対して齎すといわれています。「へびは女の後に水を川のように、口から吐き出して、女（教会）をおし流そうとした」。&lt;cite&gt;（黙示録12:15）&lt;/cite&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私達は気をつけなければなりません。明らかにペテロは躓くことがないためには彼の信仰をキリストが祈ることが必要でしたが、ペテロはその忠告に耳を全く傾けませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;高ぶって、ペテロは自分の信仰がサタンの攻撃に耐えられると考えました。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;皆さんはペテロが自分の信仰について公言したことを覚えているでしょう。「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。&lt;cite&gt;（ルカ22:33）&lt;/cite&gt;ペテロがあまりにも大っぴらに言ったのでそれが霊的に大胆であるように見えますが、これはパウロが教会に諫めている肉の高ぶりを象徴しています。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」。&lt;cite&gt;（Ⅰコリント10：12）&lt;/cite&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パ ウロによれば、私達は霊的戦いに於いては自分に謙遜である姿勢を常に示すべきといっています。ユダ書にもそんなことが書いています。「御使のかしらミカエ ルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであっ た」。（ユダ書9）神の言葉はそんな謙りが必要である事を明らかにしています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そ れにも関わらす、多くのクリスチャンはその事を忘れています。しばしは、クリスチャンが「殉教者になってもいい。何がおきても、主と供に死ぬ用意が出来て いる」など言うことを聞きます。ペテロはそれと同じ事を言っていましたが、いざとなっては彼はそうする用意が出来ていませんでした。実際にイエスの為に死 ぬ場面では、自分が決してしないだろうと考えたことを、イエス様を否むことをしてしまいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その危機の中で、ペテロがイエスの信仰を宣言すべきところで、彼は呪いました。恐れと戸惑いの中で、彼は周りの人達に抗辯しました。「私はその男を知らない」。ペテロにとって何と情けない瞬間だったんでしょう。一番大胆な信仰者は命を恐れる臆病者に成り下がりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;沢 山のクリスチャンはペテロがしたような事はしないと考えていると思います。彼等は自分はそんな大きな罪には関わりないといいます。しかし、その時になれ ば、自分は死に至るまでイエス様に従うと考えてしまいます。そんな人達に言います。キリストを従う誰一人もヨブやペテロの失敗を超える者はいません。悲し みや試みが、彼らに迫った様に悪しき者から来るなら、私達全てがそんな信仰の危機に晒され得ます。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;この事を言って、失敗を恐れさせようとしていません。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;この事を言ったのはこれが極めて深刻なことだからです。聖書は明らかにしています。そして私は沢山の信仰者がそんな失敗を犯そうとしているのを見ています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今、 私は、その信仰が揺り動かされた、そんな神の僕を間の辺りにしています。大きな信仰の人達、ある人は癒しや奇跡を行う説教者の人もいます。決して神の忠実 さを疑ったり、揺れ動くと考えたりすることがなかった聖徒達です。嵐を通り抜ける事が出来る人達はこの神の僕達だと考えていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、ある人達は神が祈りに答えん事まで疑っています。嘗て神への彼らの信仰の堅固さは他の人の信仰に火を付けましたが、今やヨブやペテロのように考えられない難航が彼らに迫りました。そして彼等はその試みの激しさに力を失い、揺らいでいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ペテロがこの攻撃を受けている時、イエス様は彼の為に祈っていました。私にはこれが聖書の中で最も力付けられる言葉です。「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」。&lt;cite&gt;（ルカ22:32）&lt;/cite&gt;イエス様がペテロに言った事を考えてみて下さい。イエス様はペテロに、彼がどんな状況にいても、キリストを否む事を含めて、どんな事を通るだろうと、彼の信仰は躓かないと宣言しておられるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一瞬たりともペテロは神に見捨てられたのではありません。ペテロがイエスを否み、その場から逃げ去った後にも見捨てられていません。かつて大胆であった弟子は砕かれ、苦悶していましたが、一時も一人ではありませんでした。そして、愛する皆さんも一人ではないのです。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;あなたの試みが、苦しみが、試みが、失敗が、どんなものであろうが関わりありません。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;この時にも、嵐、痛み、悲しみの只中で、イエス様はあなたを執成（とりな）しています。イエス様はあなたを決して見捨てないでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イエス様がペテロに警告と同時に与えた励ましを見て下さい。「それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。&lt;cite&gt;（22:32）&lt;/cite&gt;これはイエス様がペテロに与えた警告の終わりに、その同じ文書にされています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;愛 する皆さん、私達を神が裏づけ、励ましています。創造主が御手で私達を支えているのです。主はペテロにしたように私達にも言っているのです。「起きて、行 きなさい。自分の失敗に目を向けないで、私の羊を養いなさい。敵がどのようにあなたに働くかをわたしの尊い者に警告しなさい。そしてわたしの手で彼等を全 ての試みの中支えていると言いなさい」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ペ テロには重要な仕事がありました。彼はこれから説くべきと定められたメッセージを自ら最初に体験し、備えられなければなりませんでした。イエス様は教会に 私達がサタンの計略に無知でいる事が出来ないと言っています。ペテロは神の尊い者達が直面する試みだけではなく、忠実な神が彼らのどん底でも見ておられる 事を語りえました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私達は仇の計略や方法を知っておく必要があります。サタンが用いる武器の中で最も強力なのは偽り－嘘吐きの口先から私達へ、悪意に満ちた偽りです。その中でも一番大きな嘘は何でしょう。神がその民に忠実ではないということです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今まで彼が人の営みでしたように、サタンは私達を篩に掛けようと神の許しを要求しています。彼は私達の家庭、結婚、子供、健康、仕事、将来、主にある私達の信仰自体を攻撃しようと願っています。これが黙示録で話している洪水、信仰者に降りかかる試みの洪水のことです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでは、信仰者にとって、どれだけ悪くなるだろうか。神さまが私達を篩に掛ける許可を与えたのなら、それが何なのだろうか。ヘブル所の11章に、様々な試みを耐え抜いた信仰の英雄や殉教者が記されています。聖書は言っています。「これらの人々はみな、信仰によってあかしされた」。&lt;cite&gt;（ヘブル11:39）&lt;/cite&gt;&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;かの殉教者達が受けた同じ苦しみと困難が今でも信仰者達が受けています。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;イ ラクの多くのクリスチャン達が戦場で信仰ゆえに危険に晒されています。多くの聖徒達が命からがらに、家を、職場を、教会を捨て、逃げなければなりません。生きる為、クリスチャンを迫害するシリア、ヨルダンや周りの国に逃げなければなりません。彼等は家も仕事も救援もありません。日々の糧 の為に毎日祈らなければなりません。多くは殺されましたが、彼等は避難した外国で、福音に仕えました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私 はそのイラクの信仰者の証しのいくつかを聞いています。彼等は「デーヴィット兄弟、苦難の時はやがて来るのではなく、この何年間が苦難の時、そのものであった」とわたしに書いています。彼等は何世代もの苦しみ続けたので、信仰に固く立つことを学びました。ペテロのように、キリストの教会でその警告を力強く語れる様に備えられています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は多くのる信仰者達が悪魔の攻撃、悪霊からの絶望的な状況を耐えていると思います。あなたがそんな信仰の試みにあっていないなら、感謝して下さい。謙り、決してあなたの信仰の強さを誇ってはなりません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サ タンは、試される者が疲れ、力や忍耐が尽きるまで待っています。サタンは全ての祈りが答えられないように見えるまで、全てが絶望的で、人ではどうしようも ないと見えるまで待ちます。それが、ペテロの目の当たりに、サンヘドリンで主が辱めを受けるのを見た時、起きた事です。これが、愛しているものを全て 失って、ヨブに起きた事です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;試みられた魂の心に疑問が、神よ、あなたは何処にいるのかと疑問があがる時、何故私の祈りは答えられないのかと問う時、サタンはその恐ろしい嘘を囁くのです。「神はあなたを見捨てている。置き去りにしている。彼はあなたを聞かない」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神はあなたを見捨てていません。神は決してそうしません。今、神はあなたに語っています。「あなたに保障する。わたしはあなたを決して離れない。さあ、起 きて、わたしの羊を養いなさい。あなたに対するサタンの計略を心に留めなさい。わたしは世の果てまであなたと供にいる」。アーメン&lt;/p&gt;</description>
 <category domain="http://www.worldchallenge.org/ja/taxonomy/term/200">David Wilkerson</category>
 <pubDate>Fri, 22 Jan 2010 15:14:35 -0600</pubDate>
 <dc:creator>yohan_kanekoji</dc:creator>
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 <title>正しい歌、間違った所</title>
 <link>http://www.worldchallenge.org/ja/node/8533</link>
 <description>&lt;p&gt;イスラエルは絶体絶命のところでした。彼等の目の前には紅海、左右には山、後ろからはバローとその鉄戦車が迫っていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは教会でよく聞く、馴染んだ話です。イスラエルの子らを神は激しい敵に包囲される劇的危機に導きました。信じられない話ですが、主は意図的にそんなどうしようもない状況に、御自身の民を導きました。この話は今日の教会にとっても、特に歴史上この時に、とても重要な意味を持っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イスラエルは挟まれ、助けは全くないように見えました。イスラエルの陣営は狼狽しました。女･子供達はその父と長達にぶら下がり、泣き喚きました。怒った民の長老等はモーセに｢エジプトには墓はなかったのか。あなたは私達を死ぬ為に引き摺り出したのか。エジプト人が諦めるとあなたが言ったではないか。バローの奴隷で生きるのが、こんな荒野で死ぬよりはましだ｣と責めました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしかして、モーセはその時、一瞬疑念を抱いたかも知れません。そしてモーセは跪き叫びます。｢主はどうなっているのですか。これがあなたの御旨がこれですか｣。神はモーセを窘めました。｢あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか｣。(出エジプト14:15)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その暗闇の時を選んで神はイスラエルに救いの奇跡を齎しました。急に旋風が吹き、海を二つに分けました。目の前の逃れる奇跡の道を、乾いた地を歩くように海を渡りました。そして、バローとその軍が追い駆けようとすると、波に浚われ、激流に溺れ死にました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;｢このように、主はこの日イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルはまた、主がエジプト人に行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた｣。(出エジプト14:30-31)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;次の言葉に注意して下さい。それがこの話の中心です。｢イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。…そこでモーセとイスラエルの人々は、この歌を主にむかって歌った｣。(14:31-15:1)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;｢イスラエルの民が起きた事を見て、タンバリンを打ち鳴らし、神を賛美し、歌い始めました。｢主に…輝かしくも勝ちを得られた、…主はわたしの力また歌、わたしの救となられた、…わたしは彼をたたえる、…わたしは彼をあがめる。…主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか、だれがあなたのように…ほむべくして恐るべきもの、くすしきわざを行うものであろうか｣。(15:1-2,11)&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;その歌は確かに歌うべき正しい歌でした。しかし、神の民は間違った所で歌いました。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;イスラエルの勝鬨の歌は正しい所で歌われていません。それは寧ろ紅海の進入側であるべきです。反対に、彼等は神の力が働くこと、彼等の救いが来ることを見て、凱歌を歌いました。｢そこでモーセとイスラエルの人々は、この歌を主にむかって歌った｣。(出エジプト15:1)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人々は互いに言いました。｢これは凄い。考えても見なさい。この奇跡は世の邪悪な人達、神を信じない者達に語り継がれるだろう。私達の神の力が全てに勝ると知るだろう｣。｢もろもろの民は聞いて震え…エドムの族長らは、おどろき、モアブの首長らは、わななき、カナンの住民は、みな溶け去った｣。(15:14-15)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神の民はきっと自分達は安全で、力強いと感じたでしょう。彼等は自分達が恐れられる、一目置かれる事を歌いました。まるで、彼等は｢証拠を見ろ。神は全く絶望的状況から私達を救ったと豪語しよう。主がその恐るべき力をもって私達と共に居られる事を知るだろう｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、この証はイスラエルのものではありません。神の証に過ぎません。主は仰いました。｢こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よ。…エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。(14:17-18)神はエジプトに御自身の力を認めさせました。その同じ時に、イスラエルの民は彼等の試験を通りませんでした。唯、モーセだけが彼等の苦境に立った時、勝った群の内にある事を祝う歌を歌う権利がありました。彼らにあったのは神の救いの証拠であって、神に対する信仰の証はありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;分りますか。この歌、信仰の歌は、彼らが試みられる時に神が聞かんとしていた歌でした。誰でも勝った後に勝鬨を上げる事が出来ます。疑り深い人でさえ、神が助けた後は、喜びの歌を歌うでしょう。しかし、そんな歌は信仰の証ではありません。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;&amp;#160;今必要なのは試みられる時でも救いの歌を歌えるクリスチャンです。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;ギデオンには僅か300人の勇者しかありませんでした。しかし、彼は戦いの前に信仰にあって叫びました。きっと、主はギデオンが紅海の辺の戦く陣営の中から立ち上がる事を待ち望み、神が嘗て彼らに忠実であって事を思い起こさんとしたでしょう。神が願うのは、絶体絶命の時に、自分をはっきりさせる事です。四面楚歌の時は、神のみぞ助け救う事が出来る時、イスラエルの紅海の危機の時は、神が彼らの信仰を強くする、学ぶ体験として神に与えられたものでした。言い換えれば、全てがうまく言っている時は信仰が試されないとの事です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もし、神がエジプトでなさった奇跡をイスラエルの民が覚えていたのなら、また、イスラエルの民が｢父が子を運ぶように彼らを御手にて運ぶ｣との神の言葉を信じたなら、また、僅かな人でも反対側で歌った賛美の歌をそこで歌っていたなら、そして、少数でも主を信頼して｢主は我が力、我が神は勝利する。主のような方は誰もいない｣と叫んでいたら、次に何が起きたのでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;等はきっと神にある堅くまた強い、逆境の火に鍛錬された信仰を得たでしょう。彼等の信仰は決して揺らぐ事無く、彼らを今や待ち受けている全て荒野の旅の困難を乗り越えさせたでしょう。彼等は信仰を立て上げる基礎を得たでしょう。そして、決して悪魔が近寄れない信仰によってどんな状況でも神を心から賛美する事を学んだでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、イスラエルの民は歌いませんでした。その代わり、彼等は口を尖らせ、呟き、不平不満を言い散らしました。神が彼らを等閑にしたといいました。彼等は神が彼らを愛し、気遣う事を全く信じませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;｢誰がイスラエルのような悪い状況で、救いを歌う事が出来るだろうか｣。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;ある人はまた言うでしょう。｢そんな状況で歌うなんて普通じゃない。普通の人間だよ。イスラエルの立場になったら、私達も彼らと同じでしょう。狼狽して叫んだでしょう。試みられる時、妻や夫、子供、家族の事を考えるのが普通よ｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;誤解してはいけません。私達の神は優しい、愛しい父です。私達は泣く時も、恐れて怖気づく時もあります。しかし、今やキリストの肢体の多くが将来の不安を、自分ができるかどうかの恐れを乗り越えるべきです。この教会を二十年以上牧会した牧師として、これを軽々しく言うのではありません。何度も私は祈りました。｢主よ、あなたの民が職に溢れたり、家を取られたりする時に喜ぶべきだと仰いますか。彼等は苦しく、絶望しています。歌いたいと思わないでしょう。そんな事を求められるのですか｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;福音書の色々な箇所で、主は｢あなたの信仰はどこですか｣と弟子達の不信仰を叱りました。何度もそんな箇所を見ています。しかし、｢何故、あなたは私に叫ぶのですか｣と神がモーセに言った時は、叱りませんでした。その代わり、神は人々の不遜な言葉には親切にはなりませんでした。彼等は彼等の子等が敵に滅び尽くされることを神が許していると責めました。その攻撃に神は激怒しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;｢またあなたがたが、かすめられるであろうと言ったあなたがたのおさなごたち、およびその日にまだ善悪をわきまえないあなたがたの子供たちが、そこにはいるであろう。わたしはそれを彼らに与える。彼らはそれを所有とするであろう｣。(申命記1:39)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私達は切羽詰っている時、私達は主に当然叫ぶべきです。私達の状況がどうしようもない時、私達は｢主よ、助けて｣と祈るべきです。私達の失望や痛みをすべて主にさらけ出します。主はそれを私達から聞きたいと願っています。そして、私達が自分の心を注ぎ出した後、主は私達が信仰にあって立ち上がり、試みを直面し、｢私は自分では何も出来ない。神は我が力。私は恐れない。私はもだして立ち、主の救いを見る｣と宣言する事を願っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イスラエルは彼等の救いの後に凱歌を歌いました。しかし、彼等は信仰ではなく、安心の歌を歌いました。その歌は信頼の礎がない歌です。歌の真価は、三日後イスラエルが次の危機で彼等の古い癖、疑いと恐れに戻ったときに露にされました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;愛する皆さん、私達には、私達の弱さの気持ちを知る優しい、愛しい父がいます。イエス様でさえ試みの時に泣きました。父は御自身で体験されたので知っています。そして父は私達を慰め、希望を語り、魂に平和を齎すために御自身の聖霊を送りました。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;この世は、私達が逆境のなかで賛美を要求しています。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;｢われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、『われらにシオンの歌を一つうたえ』と言った。われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか｣。(詩篇137:1-4)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この詩篇はイスラエルのバビロン捕囚の事を表しています。その時点では神の民は、祖国を含めて、全てを失いました。今や、彼らを捕らえた者達は、イスラエルでよく知られる勝鬨の歌を聴きたいと欲していました。｢私達に歌いなさい。かの歌で私達を楽しませよ。あなたの神に捧げた大いなる凱歌のことを聞いた。我々にそれを歌いなさい｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;愛する皆さん、この世は未だ、神の民から勝ち歌を要求しています。私達に挑戦しています。彼等が本当に知りたいのはこれです。「あなたは今の危機にどう反応するだろうか。私達はあなたの神が全能で忠実な神であると聞いている。今のあなたの状況はどうしようもない。だったら、あなたは賛美を止めるのか。それでなければそんな時でも神を信頼するのか。そんな状況になる前、あなたは神の忠実さを歌っていた。それは嘘だったのか。何故、今ではないのか。神は変わってしまったのか。だったら、御伽話を歌ったことにならないか。あなたの救いの歌は単なる童のうわ言ではないか。そうでなく、苦しい時でもあなたは信仰を保つのか」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この要求は単なる嘲りではありません。バビロニア人は証を聞きたかったのです。彼らの宗教は乾き、希望もなく、虚しいものでした。神の言葉「悪しき者達には平和はない」が言っている通りです。そしてこの世は私達が平安なのと同じように平安を求めています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最近のある雑誌の見出しはこうでした。「ニューヨーク　夜な夜なパーティー」。その通りです。週末のタイムスクェアーは身動き出来ない程、混雑しています。どうしてかと言うとパーティーに赴く沢山の人達のためです。しかし、夜も深まる2時、3時に、嘆きが始まります。パーティー好きの本当の苦悩を示すように街から切羽詰った声が上がります。その音ははっきりと耳元について離れません。それは人の魂がその虚しさと絶望を嘆くものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;詩篇を読んでいくほど、かのバビロニア人も同じように切羽詰まっていたと私は信じられてきました。彼等は、イスラエルの神、その神は奇跡を行い、人々を労わり、安全な強い砦であった神の事を聞き及んでいました。彼らを捕らえた人達は自分達のために本物の証が自分のものにしたいと願っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;バビロンの人々は神の民が彼等の苦悩の時に、彼らの勝ちの歌を歌うことを見る必要がありました。彼等はどんな事が起きても心に語る証を願っていました。彼等はこう言っているのが見えるようです。「あなた方が奇跡を見せようがそれはかまわない。私達は足萎が歩こうが、盲が見ようが構わない。私達は全てがうまく行かない時でも、神御自身が平安の源である民が見たいのだ。それが私達に必要な奇跡だ」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あなたは全き平安をもって／こころざしの堅固なものを守られる」。（イザヤ26:3）愛する皆さん、これが今この世が見たいと願っている奇跡、超自然の不思議です。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;&amp;#160;捕囚のイスラエル人は神の忠実さの嘆くべき証です。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;バビロンで鎖に繋がっているイスラエルの民は歌う事を拒みました。彼等の体験の中で何にも学ばなかったのです。彼等が体験した試みは虚しいものでした。主からの全ての警告や希望の知らせは台無しでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;バビロンの人達は失望したに違いありません。彼等は自分達で言ったでしょう。「この人達、イスラエルの人達は私達と変わらないではないか。彼等は偉大な神があるはずだが、その神とて厳しい時に喜びを与えられないではないか。そんな神を求めてどうする。この世に希望などない。時が厳しければ私達と同じようにイスラエルの民も絶望してしまう」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;皆さん、この世は偉大な説教が反響を及ぼすのでしょうか。教会の様々なプログラムが影響するのでしょうか。この世にはあまり多くの「奇跡の薬」が開発され、見てきたので、癒しでさえ動じさせる事が出来ません。心臓をバイパス手術し、切断された肢体が繋ぎ直され、心臓･目･肝臓･肺を移植するなど、神の知恵がこれを可能とさせたにも拘らず、あまり多く見ています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この世が見る事を希っているのはクリスチャンが試みられたにも拘らず、四面楚歌であるにも拘らず、賛美する姿です。このクリスチャンは喜び、神を信頼します。彼は彼の状況を呟くなどしません。返って彼は主の忠実さを歌います。彼は人や状況ではなく、神に信頼を置きます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この奇跡が失われた者を勝ち取る奇跡、暗闇の時の真の平和の奇跡です。何故なら、この世と悪しき者達も私達と同じく厳しい所にいて、希望が欲しいからです。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;私達は試みの時に疑いの中で死を取り扱わなければなりません。&lt;br /&gt;
そうでなければ私達は確実に呟く人達となります。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;勝利の後の凱歌は真の信仰の歌ではありません。何故でしょうか。私達の疑いは体験による死を取り扱ってないからです。私達が勝利の救いを体験したら、私達は一時的に感謝を大いに捧げます。私達は極普通に喜びます。何故なら私達の神は私達の疑いに拘らず、慈しみをもって動かれたからです。では、私達の疑問はどうなったのでしょうか。それは心の奥底にしまわれるだけです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;聖徒の皆さん、神があなたを今の状況に導きました。あなたは、あらゆる方向から敵に攻められているように見え、絶体絶命です。モーセが言ったように、「主よ、あなたは私の人生全てに忠実に導かれました。しかし、私が今通っていることは理解できません。あまりにも絶望的です」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今、私達は未だ嘗て見た事のない混沌の時代に生きています。サタンは沢山の人達を苦しめるべく恐れさせています。そんな時に、私達の主はその民をこう呼んでいます。「これにどうする。あなたの周りで起きている全てにも拘らずあなたは私の約束を信じるか。あなたの最も恐れていることにも拘らず私を信じるか」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうするためには、私達は心を主に置かなければなりません。「あなたは全き平安をもって、こころざしの堅固なものを守られる」。（イザヤ26:3）私達にそうする意志が無ければなりません。如何に私達の状況が信じられないほど暗いものであっても、私達の内側から信仰によってこう告白しなければなりません。｢どんな悪魔でも、この世の何者であっても、私はいつも忠実に救い出す唯一の方を信じる｣と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その時が真の平和が訪ねるときです。私達の主にある信頼を喜ばれる主御自信によって与えられるものです。そして、周囲を混乱が司るとき、私達の歩みが喜びの力強いメッセージを語ります。主はこの世の人達のために新しい歌を与えました。主は忠実な方です。その民が通り抜けるかどうか見張っています。&lt;/p&gt;</description>
 <category domain="http://www.worldchallenge.org/ja/taxonomy/term/200">David Wilkerson</category>
 <pubDate>Wed, 16 Dec 2009 15:30:34 -0600</pubDate>
 <dc:creator>yohan_kanekoji</dc:creator>
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 <title>嘆く人を哀れむ主</title>
 <link>http://www.worldchallenge.org/ja/node/7702</link>
 <description>&lt;p&gt;私は嘆く人を労わる主をただ驚くばかりです。聖書を読む中で、嘆きを乗り越えようとする魂以上に神様を動かされるものはありません。嘆きとは｢深い悲しみ｣とか｢激しい状況によってもたらされた悲しみ｣を言います。｢イザヤは主はこのような激しい感情を体験しておられると語っています。｣(イザヤ53:3)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マルコの5章 で神が如何に嘆く人を哀れむかの一例を示しています。この章は会同司であるヤイロと長血を患う女性との遭遇を記しています。カバナウムの会堂司として、ヤ イロはイエス様を拒んでいた宗教組織の一員でした。彼が個人的にキリストについてどの様に考えたかは知る由もありませんが、彼はキリストの癒しの力を目撃 して、知っていました。おそらくキリストが、手の萎えた人を癒したのもヤイロの会堂に違いありません。また、多分イエス様が、「あなたこそ神の子」(マルコ3:11)と叫んだ悪霊を追い出した人と一緒にいた群れのなかにいたでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヤ イロはコラジンやベッサイダーでイエス様がされた力強い業の噂を既に聞き及んでいたと思います。彼を含めるカペナウムの長達はイエス様の信用を無くさせよ うと色々と細工をしたので、イエス様はこんな風にまで言わしめました。｢ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落 されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう(マタイ11:23）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、マルコ5章のヤイロの話では会堂司の家に悲しみが訪れたことを見ます。　彼の12歳なる娘は｢死にかかって｣いました。ですから、彼は藁をも掴む気持ちでイエス様に言ったのです。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;ヤイロをキリストに導いたのは大きな悲しみからでした。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;ヤイロの家に何の問題もなかったのなら、彼はイエス様に果たして来たのでしょうか。考えて見て下さい。萎えた手が癒された奇跡がヤイロを納得させ切れません でした。多くの人がイエス様の教えを聞きに、奇跡の業をみに来ましたが、ヤイロは動じませんでした。聖書にもヤイロの娘がイエス様を信じ、褒め称える場面 が出ますから、若しかしてヤイロの娘が既にキリストについて知っていたかもしれません。その子がお父さんにいっている場面が見えそうです。｢お父さん、イ エス様を呼んで。イエス様は私を治せます｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヤ イロの愛しい子は死に掛けていました。会堂司はイエスを呼ぶことに葛藤しました。彼の仲間らはキリストを馬鹿にし、偽者呼ばわりをしていました。彼らはイ エス様を破滅させ、殺す事まで企んでいました。もし、イエスに助けを求めるなら、彼は村八分にされ、罵られるでしょう。会堂司としての職を失うのみなら ず、彼の居場所が無くなると言う意味でした。彼は爪弾き者となることです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そ れでヤイロが終に我らの主キリストを求めた時、｢大勢の群衆｣がヤイロについて行った理由ではないかと思います。カペナウムの人達は、会堂司がイエス様を 招きいれてどんな事になるか興味津々であったのです。では、ヤイロが足元に平伏し、｢しきりに願った｣時、主はどうされたのでしょうか。｢イエスは彼と一 緒に出かけられた｣と記されています。キリストは、仮にヤイロの信仰が問題から生まれたとしてしても、愛をもって応えました。弟子達はこう考えたに違いあ りません。｢ヤイロという男は、普段は何にも関わろうとしながった癖に、尻に火か付いたから来たのだろう。四面楚歌だからイエス様に来たのだろう｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そ の通りです。問題がヤイロをキリストに導きました。実際に私達は私達の問題、痛み、傷に愛を持って導く主に仕えているのです。考えて見て下さい。ヤイロが したのは我々がしたことなのです。私たちも嘗て主を忘れ、なおざりにし、拒んだことがあります。しかし、私達の神が一に注意しておられるのは｢あなたは私 と歩んでいるか。あなたの試みの中で、あなたは吾に呼びかけているか｣です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神がご自分の民イスラエルを戒める時も、彼等の痛みを酌んでおられました。士師記10章16節 では｢主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった｣と記されています。言い換えれば主はその民について心痛んでおられたとのことです。それまで主は その世代にこう言われました。｢吾は最早あなたを救わない｣。しかし、彼等の苦しみの中、主は彼等の嘆きを酌み、応えられました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;”私たちは旧約聖書を通して、こんなことをしばしば見ます。何度も聖書に｢神は彼等の叫びの故に後悔された｣と記されています。この句は彼等の労を和らげ、いたわり、神が悲しまれたことを示し裁きの時さえも、神はその子らを悲しまれています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;詩篇の著者は｢その契約を彼らのために思い出し、そのいつくしみの豊かなるにより、みこころを変えられ、彼らをとりこにした者どもによって、あわれまれるようにされた」と宣言しています。(詩篇106：45-46　斜体に注意）神の子等が傷付けられるのを見るならば、神ご自身が悲しむだけではなく、民らの敵さえ民も哀れむようにするとのことです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;も しかしてあなたは今、大きな嘆きを抱えているかも知れません。身近な人が傷付けられ、苦しまれているかも知れません。それはもしかして、それは不良になっ て、罪に落ち行く息子や娘の事かも知れません。もしかして、金銭的なことかも知れません。これらの全てのことについて言います。「イエスキリストはあなた の悲しみに動かされます」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イ エス様がヤイロにしたように、私たちの苦しみにあってイエス様がともに歩まれることはなんと素晴らしい事でしょうか。しかし、奇跡が既に行われんとして も、それが直ぐにとは限りません。イエス様がヤイロと供にいましたが、それが直ぐではなかったのでヤイロは絶望の底に落とされました。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;必死に助けを求めた誰かにキリストが応えた時、ヤイロの奇跡は延ばされました。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;ヤイロの家に行く道程で、一行は長血（血流病）を患う女性に会いました。12年 間下血は止まらず、ゆっくりと彼女を死に追い行っていました。医者であったルカは、彼女が「医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにも なおしてもらえなかった女がいた」と記しています。ユダヤの律法では、この女性は「不浄」であると定めています。今の私達にとって彼女が象徴するのは罪や 不浄の者に囚われている信仰者です。ある注釈書によれば罪の患いから血が流れ続けていることを示すとも言われています。何年も長い時間かけて霊の命が失わ れ、戦いに敗北する状態ではないでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;12 年間、この女性はそんな戦いをしていたのです。彼女は治療するためさまよいました。彼女はある先生のことを聞き、希望を持ったりしたのでしょう。かかった医者全てに、「私の問題は…」 と毎度説明しなければならなかったのでしょう。その医者たちは彼女からお金をとり、治すことを約束したのでしょう。しかし、毎回、彼女は失望して帰ってい くだけでした。あるとき、この女性は諦めの境地に至り、「何の方法もない。諦めよう。ゆっくりと朽ちて行くだけ」と考えたに違いありません。悲しいこと に、この女性のような沢山のクリスチャンに出会います。彼らは答えを求めてさ迷います。彼等は自分の問題を繰り返し説明し、今度こそ自分の問題の解決が得 られると願います。彼らの心から流し続けている血を止めたいのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かの病む女性はもう一度希望を賭けます。今度はイエス様の衣の房にただ触れるだけでした。そうした時に彼女は直ちに癒されました。その時、イエス様は振り向き聞きました。「わたしにさわったのは、だれか」。それで彼女は「震えながら進み出」ました。（マルコ5:33） 何故彼女は恐れ、震えたのでしょうか。何故なら、彼女は律法上不浄であったからです。彼女は他人と触れ合う事のみならず、礼拝することも許されません。ユ ダヤの律法はこう定めています。「その女はなお、血の清めに三十三日を経なければならない。その清めの日の満ちるまでは、聖なる物に触れてはならない。ま た聖なる所にはいってはならない」。（レビ記12:4）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼女は自分がした事を認めることが怖かったのです。彼女にはそれだけ恐れる理由がありました。しかし、「イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話し」ました。（マルコ5:33）&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;ここにイエス様がヤイロの奇跡を延ばした二つの理由があります。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;先 ず、一つは、イエス様はこの女性が、自分が汚れているという感覚から開放させたいと思ったからです。イエス様は彼女の呪縛を公に取り除きたいと願ったから です。わたしもこの女性のように、自分の「不浄」のために恐れに覆われて生きている多くのクリスチャンを知っています。これがあなたに当て嵌まりますか。 あなたはあまりにも長く罪と同棲しているがために「今まで罪を犯しし続けた。イエス様は私を完全に癒すだろうとも、私は救いようがない。私は教会に行けな い。汚れた私なんか、聖なる場所に居てはいけない」と考えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もしあなたがよい教会、いたわる教会にいるなら、あなたはそこに居るべきです。何故なら、そこは医者が居るところだからです。あなたの過去がどんなに悪しきものであっても、不浄であっても、誰も気にかけません。その代わり、「癒されたいのですか」と聞くだけです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここでイエス様がヤイロの奇跡を延ばした二つ目の理由が見出せます。イエス様はヤイロに重要なことを教えんとしています。その状況を描いてみてください。ヤイロは自分の娘の床にイエス様をお連れしようと焦っていました。にもかかわらず、長血を患う女性が入り込んで、イエス様に身の上を話し始めました。聖書には「全て話した-英訳」と書かれています。大分時間がかかったと推測できます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヤイロはその時心の中で呟いたのでしょう。「この人は12年 間も病んでいる女だ。一刻を争うわけではない。私の娘は、今でも死に掛けているんだ」。焦って、手を揉んだり、うろつき、なんかの知らせが来るかと見たり と想像し難くありません。しかし、時は過ぎていきました。ここでイエス様が教えんとする二つ目のことの先半分です。「私達は自分の苦しみやもがきに、自分 への奇跡ばかり考えてしまい、イエス様が他の人にした恵みを喜べなくなってしまいます」。自分のことが一杯で他の人の必要が見えなくなっているのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こ こで教えの後半分です。私達はイエス様が他の人になさる事を見て、自分が抱えている事の問題に対する信仰も建て上げる事もできるのです。私はキリストがヤ イロの信仰をその場で強めようとされたと信じます。イエス様はヤイロにこう言ったかもしれません。「ヤイロよ、あなたが焦っている事は知っている。あなた の状況は全て知っている。しかし、この哀れな女を見なさい。彼女は12年間も、君の娘が生まれたときから苦しんでいたのだよ」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あ なたの祈りの答えが未だ見えませんか。他の人が、触れられ、癒され、奇跡がおき、勝利したのをあなたは目の前にしながら、あなたは苦しみの中、　立ち続け ています。あなたは我慢できなくなり、神に怒りの訴えをします。「主よ、私に何故ないのですか。私の奇跡はどこですか。何故、遅いのですか」。もし、そう であるなら、あなたは重要なことを見落としています。主はあなたの信仰を建て上げようとされているのです。主はあなたが苦しみを乗り越え、どれだけ遅くと も神にある信頼を得て欲しいと願っています。神はご自身があなたの周りの沢山の人に働かれる傍ら、目があなたに注がれている事を見せておられるのです。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;イエス様は全てが絶望的な時、特に応えられる。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;イエス様が長血を患う女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」という言葉を、ヤイロが聞いたのだろうかと考えます。（マルコ5：34）ヤイロにそれを聞く耳はあったのでしょうか。彼は自分へと来るメッセンジャーだけに気に向いていたからです。聖書はイエス様が女性に奇跡の言葉を話している時に、ヤイロは絶望の知らせを聞いたと記しています。「あなたの娘が亡くなりました」。（5:35）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サ タンがヤイロの耳元に囁く声が聞こえそうです。「何の為にこんなことをしたのか。イエスは結局何もしなかったではないか。奇跡なんてない。女は癒されたと いっているが、眉唾物ではないのか」。そこでメッセンジャーの言葉が彼の心に突き刺されます。「先生を煩わすには及びますまい」。ヤイロへの言葉は「無駄 だ。神にとっても手遅れだ。イエス様、有難いが、もういらない。遅すぎる」と責めている言葉です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;囁 きの声はヤイロを攻め立てます。「あなたはこの人、イエスを信じた。あなたはその足元にひれ伏し、彼の助けを求めたが、全て無駄ではないか。歯を食いしば り、会堂に戻りなさい。イエスはあなたを助けられない」。イエス様はそんな事が行われていのを全てご存知でした。ヤイロの顔色に恐れと失望、苦しみを見た 時、イエス様は言いました。「恐れることはない。ただ信じなさい」。（マルコ5:36）キリストはその群集に、ひいては私達に言っています。「私と歩み、私を求め、悔い改めて私の足元に平伏すだけでは充分ではない。信頼し、私は命を死から見出すことを信じなければならない」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;真 にこれがヤイロが通らなければならなかった最後の関門の一つでした。彼は死と直面しなければなりませんでした。この哀れな人の愛児は既に死んでしまいまし た。ヤイロとイエス様が戻っていった家はどうでしょうか。混乱と悲しみがあったことは想像し難くありません。娘の母は彼に「何故来なかったの。もうだめだ よ。わが娘は死んでしまった」と訴えたのではないでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;愛する皆さん、主が私達に何を聞かんとしているかがここで示されているのです。私達は混乱と死と恐れと嘲りの所に入り、「恐れることはない。ただ信じなさい」の言葉に従わなければならないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私 達はヤイロが信仰を固く保ったか、心が恐れに潰されたかは知る由もありません。ただ、私達は次に驚きの場面が繰り広げられた事を知っています。イエス様は 死んだ子の手を取り、言われました。「少女よ、さあ、起きなさい」と言いました。「すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていた からである」。（5:41-42）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;会 衆の皆さん、私達は繰り返しイエス様の言葉を思い起こさなければなりません。絶望や死の前、八方手を尽くしたが、手をつけようがない時、「恐れることはな い。ただ信じなさい」の言葉を。あなたは言うかも知れません。「苦しい。信じる気力もありません。力がありません。あまりです」。しかし、58年間主に仕えた私もこう祈ります。「主よ、私に信仰をください。私は自分では信じることができません」。そうした私であっても、私は聖霊が忠実であると証しすることができます。聖霊は私達を失望させることはありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最後にパウロは「堅く立つ」時の事を言っています。（エペソ6:13）私たちは、痛みや苦しみ、肉の弱さに拘らず、神の御言葉に立ちます。ヤイロも、長血を患った女性もそうしました。彼等は「主の衣の房さえ触ることが」出来れば解決すると信じたからです。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;私達の戦いに必要なのは死から命を出でさせるイエス様のみです。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;ダビデは詩篇で主は「その息によって星の道を」創られると詠んでいます。（英訳出所不明）考えてみてください。神の息がこの宇宙を保たせているのです。ダビデは言っています。「苦しみにあるなら、止まって上を見上げよう。そうしたら、あなたは『もし神がこれらを司っているなら、神は私の必要もみたす』事も きっとされると気付くでしょう」。もし苦しみにあるなら神の威厳に目を向けてください。そうすればきっとどんな牧師よりも素晴らしい答えを得るでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたは神様が答えないので、無視されていると考えているかも知れません。あなたの奇跡の言葉は今すぐに来ます。今もあなたが祈った瞬間からあなたを救おう と働かれているのです。神様はあなたを決して等閑にはしないと約束しています。海は荒れ果て、山は海に沈み、全てがゆり動くかも知れませんが、神は決して 動かず、また神の教会の役割も変わりません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同 性愛の人達に言います。「自分の過去に執着して、生き方の根に固執するのは止めなさい。信仰を持ち、この女がしたように、内に居られるイエス様に触れて、 従って下さい。神があなたを癒します」。苦しんでいる人達に言います。「イエス様に自分の荷を降ろし、全て御手に委ねなさい。恐れず、信じなさい」。あな たがイエス様に触れるなら、あなたがその房に触るなら、あなたは御力を受けます。かの長血を患う女性がイエス様に触れた時、「自分の内から力が出て行った」と聖書は記しています。力と記しています。その力とは死や罪や汚れを治める力を言っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;記憶してください。私達の神は全てを、あなたと私を含めて、創造された神です。もしその神がダビデに、人殺しであり、不貞を働く者に、清い心を得させること が出来るなら、神は同じ事をあなたにも出来るでしょう。あなたを変えることが出来るでしょう。私達の信仰を始めさせ、完成するイエス様を見上げなさ い。（へブル12:2）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;聖 徒の皆さん、イエス様は今あなたと一緒に居られます。あなたは力を出して、かの長血を患っていた女性のようにイエス様に触れてください。きっとあなたはヤ イロと同じようにキリストの癒し、甦りを体験するでしょう。遅いと思うときでもイエス様はあなたと一緒に歩まれています。あなたを死から救い、命に導く計 画を持っておられます。恐れず、ただ信じてください。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;訳　兼小路　ヨハン　添削　星野真理&lt;/p&gt;</description>
 <category domain="http://www.worldchallenge.org/ja/taxonomy/term/200">David Wilkerson</category>
 <pubDate>Thu, 03 Dec 2009 13:17:37 -0600</pubDate>
 <dc:creator>yohan_kanekoji</dc:creator>
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 <title>暗闇の時こそ神が働く時です。</title>
 <link>http://www.worldchallenge.org/ja/node/7796</link>
 <description>&lt;p&gt;ヨハネ2章でイエス様と弟子達はカナの結婚式に招待されています。 文書を読む限り、それは家族ぐるみの招待のようです。イエス様のお母様もそこにいました。マリアは彼にこう言いました。｢主人の葡萄酒が底をついいま す｣。こんなお母様にイエス様は意外な反応をします。彼は言います。｢私の時はまだ来ていない｣。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イエス様が言った｢時｣とは何の事でしょ う。それは、三年後、十字架に掛けられる前の、言われた闇の｢時｣のことでしょうか。イエス様はその時、｢私の時が来た｣と確かに言いましたが、それのこ とではありません。カナでの時とは違います。その時点で、イエス様はキリストとしての働きが始めようとしていました。そして、イエス様がお母様に｢御自分 の時が来ていない｣と言った時、御自分の働きの時が来ていないと言っているのです。そう言った後すぐさま、イエス様は奇跡を行い、六つの瓶の水を葡萄酒に 変えました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;皆さんに訊きましょう。イエス様はどうしてその時まで待っておられたのでしょうか。イエス様は全ての杯、酒ビンが空になって、主人が焦り始めるまで待ちました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イエス様は人為的な努力が全て虚しくなる事を待っていました。奇跡以外には問題が解決出来ないまで待ちました。そして、神の時は来ました。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;信じる者にとってこれはとても重要な事です。キリストの力の時は、私達に何の助けもない時点で顕れます。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;イエス様は御自身の弟子、やがて来るべき御自身の教会に、生きたメッセージを与えています。私達の主は、永遠（とわ）と関わりのない事は決して言っ たり、行ったりしません。イエス様について聖書に記された全ては、神の変わる事のない御性質 と働きの事と関わりがあります。カナの場面にも、我々が知るべき天の原則が示されています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イエス様の時は｢その宴(うたげ)に起きていた事｣と関係があります。私達の器に葡萄酒が残ってない時、私達が策を尽くし切って、全て人の努力が虚しくなった時、奇跡だけが我々の問題を解決できる時、イエス様の力の時は訪ねます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この原則を聖書に色々なところで見出せます。人の暗闇の時、主がその力を現します。私達の知恵が尽きた時、神は私達の為に既に救いの大きな業を備えられます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;聖書はその原則の例を数多く示しています。古代イスラエルの暗の時代とも言える士師記に二つの例を上げましょう。&amp;#160;&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;その暗い時代、神は取るに足りないギデオンを通して御自身の民に備えられた不思議な救いを与えました。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;士師記6章のイスラエルは全く荒廃の時期でした。来る年も来る年も、敵が来て、略奪して行き、神の民は貧しく、助けるものがいませんでした。邪まなミデオアン人が来ると神の民は逃げて、丘や洞窟に隠れました。彼等がいない間、敵は彼等の穀物、家畜を盗り、彼等が建てた全てを壊しました。彼等はイスラエルが生き残る事が出来ないようにしました。何と暗い時でしょう。イスラエルの惨い状況は来る年も、来る年も続きました。それは霊的な死を意味します。彼等の叫びはこうでした。「ああ、君よ、主がわたしたちと共におられるならば、どうしてこれらの事がわたしたちに臨んだのでしょう。…わたしたちに告げたそのすべての不思議なみわざはどこにありますか。…」。(士師記6:13)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、こんな暗黒の時代に神はその民の為に御力を顕されました。事実、主は、イスラエルの中で最も貧しい部族の貧しい家の貧しい男ギデオンを選び、救いを与えました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたはその後どうなったかを知っています。神はギデオンに天使を送ります。ラッパと松明を使って300人の男等と共に、ギデオンはミデアン人を破ります。イスラエルは奇跡的に開放されました。彼等の暗闇の時は神の力の時となるのです。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;デボラの話でも同じ原則が働きます。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;士師記4章に｢主は、ハゾルで世を治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売りわたされた｣と記されています。罪が蔓延った為に、イスラエルは20年間暗闇に陥りました。その時に、神の民は大いに抑圧されました。その同じ時に神の力が顕れる時となりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イ スラエルの望みが尽きた時、神は女預言者のデボラを感動させました。この女性は時の暗闇に於いても問題を直視する事が出来ました。この神の人を除くイスラ エルの全ての人は恐れ戦きました。聖書は彼女が｢エフライムの山地のラマとベテルの間にあるデボラのしゅろの木の下に座し(4:5)｣、人々に会い、励ま したと言っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;デボラは宣言しました。｢さあ、立ちあがりなさい。きょうは主がシセラをあなたの手にわたされる日です。主はあなたに 先立って出られるではありませんか。…そしてイスラエルの人々の手はますますカナンびとの王ヤビンの上に重くなって、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに 至った｣。(4:14,24)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;デボラは闇が自分を挫く事を拒みました。時折の闇に神は決して驚かれない事を彼女は知っていました。ですから、彼女は神の民に信仰を語り、神が最も暗い時に神の救いの時があると諭しました。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;また、ヨシャパテ王の時、神の民が攻撃された時も私が言っている例の一つです。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;第二歴代誌ではヨシャパテ王は最悪の知らせを受けます。｢その時ある人がきて、ヨシャパテに告げて言った、『海のかなたのエドムから大軍があなたに攻めて来ます。…』そこでヨシャパテは恐れ、主に顔を向けて助けを求め、ユダ全国に断食をふれさせた。｣。(II歴代誌20:2-3)王は怯えました。そして大々的に祈り会を呼びかけます。｢それでユダはこぞって集まり、主の助けを求めた｣。(20:4)人々が神を求めて集まった時、ヨシャパテは祈ります。｢主よ、どうすればいいか分りません。しかし、私達はあなたを仰ぎ見ます｣。イスラエルは闇の時を直面しました。彼等は攻めてくる敵を止める術もなく抹殺されようとしています。そんな時、その民への神の答えは何だったのでしょう。｢大軍のために恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである｣。(20:15)　人々がこれを聞いた時、彼等のうちにある何かが働きました。彼等は主から言葉を聞きました。その闇の時に、彼等の信仰が建て上げられ、彼等は賛美し始めました。神の霊がその人々の中に顕れました。人々の賛美が天に届くや否や、主は攻め来る敵を待ち伏せるべく力強い天の御使いを送りました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一瞬のうちに、勝利は彼等のものとなりました。神の民に暗闇と見えて時が、神の救いの時となりました。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;イサヤはこの原則を、末の日にイエス様が地に来られる事を預言した時に、もっと私達と関わりがあるものにしました。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;イサヤは預言しています。｢見よ、暗きは地をおおい、闇はもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があな たの上にあらわれる。もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る｣。(イサヤ60:2-3)　この預言は末の日、光･主 イエスキリストが暗闇に来た時の事です。　イサヤは闇のうちに輝き広まるキリストの栄光の事を話しています。異邦人の地から多くの群が彼の光のうちに来る と言っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;第一に、聖霊がうちがわに働き、証しするからです。貪欲な社 会に成りつつありました。性的倒錯や 泥酔、食道楽は日常でした。実際にローマ帝国を崩壊させた大いなる退廃について本も書かれています。その時、知られていた世界は闇に覆われていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その同じ時に、闇がイスラエルにも迫りました。偽善が治める社会でした。　祭司達は寡婦を掠め取り、社会の底辺の、無学の者達、いわゆる霊的指導者を軽蔑していました。その社会は｢盲｣が｢盲｣を導く社会でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この闇のうちにイエス様が輝く光として来られました。その栄光の日の後から今にわたって、多くの人が彼の光に帰依したのを私達は知っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あ なたは言うでしょう。｢周りを見てください。未だに暗闇が地を覆っているではありませんか｣。その通りです。私の意見では、今という時は有史以来最も低落 しています。国々全てを闇が覆い、人々が実際に感じられるほどです。核の脅威、大虐殺、セックス産業に蔓延る人身売買など、これら全て人の良心を消し去る ものです。今現在よりもっと黒い暗雲が頭上を漂う事がかつてあったでしょうか。しかし、イエス様は未だ世の光であられます。暗闇が深いほど、その御光は輝 き出でます。イザヤは私達の時の闇を見て、デボラのように叫びました。｢起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったか ら｣。(イザヤ60:1)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この世の暗闇の時に今一度、主は御自身の力を顕します。主はこれから失われた魂をたくさん集め、呼び寄せることで力を顕されます。それが起きると思う三つの理由を示しましょう。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;第一に、聖霊がうちがわに働き、証しするからです。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;｢御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる｣。(ローマ8:16)　｢さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである｣。(ヘブル2:4)　｢聖霊もまた、わたしたちにあかしをして｣（ヘブル10:15）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたはこう訊くかもしれません。｢聖霊が証しされるとはどう言う事ですか｣。　次の聖句が言っています。｢それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう｣(ヘブル 10:16)　簡単に言うと、聖霊はこの末の世代に神の愛しみが注がれる事の証人であると言うのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;｢そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。…神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている｣。(1ヨハネ5:6,10)　聖霊は神様が働く、 動く処に、神がなさろうとすることを備えるべく私達に持たせています。神の教会が感動し聖霊の絶対的働きを示そうとしています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私達はまた、教会の中で闇の時を経験しています。ある教団では同性同士の婚姻を認め、若者達は神から離れてしまいます。しかし、この闇の時に、聖霊はご自身を求める全ての人を目覚めさせています。もし、あなたが御霊によって歩むなら、私が御霊より聞く同じ証をあなたも聞くでしょう。それが、私が言っている｢人の闇 の時は聖霊の注ぎのときである｣です。前もそうであったし、これからもそうです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この悪しき知らせの時、聖霊は善き知らせを証ししています。｢わたしは最上の葡萄酒をおわりの為に備えている｣と。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;第2に、祈りの霊が神の民を捉えます。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;今、ニューヨークの教会で祈り会が復活しています。誰がこの｢罪の街｣にこんな事が起きると信じられるでしょうか。先月5万名のクリスチャンがタイムスクェアに祈るために集まりました。クリスチャンの集会がその場で祈り会となって行きます。　御霊が感動する時が罪人がキリストに帰依する時、御霊が祈る時と証しする時、神が約束し、その約束を実行される時、物見してこう言いますか　｢神は約束して下さってるから信仰によって受け取ればいい。唯、神が約束された全てを成就させるかを見ていよう｣。いいえ。　御霊が動く時、信仰と熱心をもって迫るべきです。　ダニエルがエレミアの預言を読んで、イスラエルの70年間の捕囚の時が終わりに近づいた事を計算しました。彼はイスラエルがバビロンから近いうちに自由に成れる事に気付きました。神の民が自由になるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでダニエルは何をしましたか。彼は神が動く事を｢信仰によって｣ただ待つだけでしたか。いいえ。ダニエルは宣言しました。｢それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、断食をなし、荒布を着、灰をかぶって祈り、かつ願い求めた｣。(ダニエル9:3)　勿論、彼は深い信仰を以って祈りました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これが、主の全ての大きな働きの前に、聖霊様のなさった事です。聖霊様は私達が熱心に祈るよう呼びかけています。その後行われる聖霊の偉大な働き悉く祈りによって支えられるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ユダ書に、末世の世代は好色と姦淫に明渡されると書かれています。神の民がその事に不満を述べ、呟きます。ユダはそのことを預言しています。｢見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、｣(ユダ14,15)　そう書いていますが、神の民は果たしてこの事に備わっているのでしょうか。使徒ユダによれば｢しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈る｣(20)と言っています。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;第三にこの世代は既に葡萄酒は底をついており、奇跡が必要です。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;聖書の葡萄酒は嬉しさと喜びを意味します。｢すなわち人の心を喜ばすぶどう酒、その顔をつややかにする油、人の心を強くするパンなどである｣。(詩篇104:15)　新約聖書では｢新しい葡萄酒｣は聖霊を意味します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今の教会を見る時、葡萄酒の瓶は空です。何故ですか。殆どの聖書的預言者は言います。｢罪は幸せと嬉しさを取り去る｣と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここでご心配なお子さんの為に祈ってきた父や母、祖父母の方に、主からの言葉があります。耐えて下さい。イエス様は見届けており、待っています。あなたの子供の時は愈々来ます。　あなたの子らはまだこの世の古い葡萄酒を飲みます。彼等は今までの友達を捨てられません。教会で傷付けられた事、誰かを嫌っていて、解消できない疑いがあります。しかし、古い葡萄酒が入れてある器は底が見えています。友達に失望し、虚しさが彼等を覆います。その時が、尽力をつくして失敗した時、あなたは神の力の時を見ます。その恵みの奇跡のみが真の救いを齎します。ですから、祈り続けなさい。神は御自身が言った事をあなたに守ります。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&quot;newsletter-highlight&quot;&gt;そうであれば、私達は何をすべきでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;p&gt;イエス様のお母様であるマリアがその答えを示しています。カナでは、弟子達に彼女はこう言いました。｢このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい｣。愛する皆さん、主はあなたがなすべき事を仰います。　彼こそが新しい葡萄酒、喜びと幸福の源です。そして主はあなたがして欲しい事を言います。御言葉を読み、素直に実行して下さい。イエス様は昼の間働きなさいと言いました。何故でしょうか。何故なら｢夜が来る。すると、だれも働けなくなる｣からです。(ヨハネ9:4)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ヨハネの黙示録7章に、ヨハネは神の王座の前に群集が、余りにもその数か多く数え切れない程の集団が立っていることを記しています。その群は、純白の衣を着て、主を賛美する全ての国々と言葉を代表する人達です。ヨハネが｢この人達は誰ですか。何処から来たのですか｣聞いた時、｢この人達は大いなる試みを経た人達である｣と答えられました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;聖徒の皆さん、黙示録の7章の世代はこの世代のことを言っています。私達は暗闇の時、大いなる災いに生きています。しかし、光は尚輝きます。正しく、夜が暗ければ、主の光も増すのです。あなたが愛する者の為に、また闇に包まれている世界の為に祈るなら、あなたにあなた自身の物語が創られている事を肝に命じて下さい。あなたの艱難の時に、ある人が魂を救います。誰かは迷い出した者を光へと祈ります。ある人は闇から立ち上がり、キリストを宣べます。また、ある人はイエス様が新しい葡萄酒をその瞬間与えていると信じています。そしてその事が実際に行われます。あなたは光にいるのです。間違いなく他の多くも闇から出で光に入るでしょう。&lt;/p&gt;</description>
 <category domain="http://www.worldchallenge.org/ja/taxonomy/term/200">David Wilkerson</category>
 <pubDate>Wed, 11 Nov 2009 15:11:55 -0600</pubDate>
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