「イエスはそこを去って、郷里(ナザレー)に行かれたが … それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。 … こうして彼らはイエスにつまずいた。 … そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた」。(マルコ6:1-3, 5-6)
前の5章では、イエス様は素晴らしい奇跡を行いました。悪霊に取り憑かれた人から悪魔の群れを追い出し、何年も長血を患った女の人は瞬時に癒されました。会堂司の12歳の娘は死から甦りました。イエス様はそんな力強い業の場の癒された人達ににこう言いました。「あなたの信仰があなたを救った」。(マルコ5:34、10:52、マタイ9:22 ルカ7:50、8:48、17:19、18:42)
そしてこの章でイエス様は自分の郷里に帰ってきて、信じられない不信仰に直面しました。ナザレはイエス様が育ち、30年間住んでいた所です。それで、イエス様は自分の里、家族を含めた町の人達に返ってきました。
ナザレの人達はイエス様の大いなる業の噂は聞いていました。彼等は御手によってなされた「力強い業」の不思議な話を全て聞いていました。しかし、彼等にとってはそんな事は知らない場所で起きた事-それは別の町で、別の場所で、別の人達の間で起きた事でナザレという現実の場所とは何の関わりがないものでした。
別の場所で、一日で行ける距離しか離れていない場所で、人々はイエス様の奇跡の力を喜びました。他の場所で神の驚くべき業が行われ、沢山の人達が奇跡を見ました。他の場所では人々が霊に目覚め、絶望から新しい希望を見出し、人々は喜びました。しかし、ナザレの人々にはそれは他人事でした。
この人達は会堂に行って聖書を学び、正しい事をしようとする人達はでした。彼等は神の言葉を愛し、イエス様についてこう言います。「私達はイエスとその家族をしっている。彼は私達の規範です」。しかし、彼等はイエス様が人なった神と認められませんでした。
彼等が霊的に死んだ状態たったからです。彼等はイエス様が大いなる救いを齎す奇跡の人である事を知っていましたが、彼らには信仰も、期待もありません。他の所では、イエス様に飢え渇きをもった群集が、「神のわざを行うには、私達は何をしたらよいでしょうか」と言っていました。しかし、ナザレではそんな問いはなされません。
イエス様の町の誰も「何故、他の場所の業が私達は体験できないだろうか。神の力はここに何故訪れないのだろうか。聖霊の促しには何が必要なのだろうか」と言いません。その代り、彼等はそのままの状態に安住しました。
愛する皆さん、これが今の多くのクリスチャン、教会の悲劇的状況です。彼等は神の業が他の場所で行われ、沢山の人達が救いを受けるのを聞きます。したし、誰も「何故、ここではないだろうか。何故、今行われないだろうか。」と訊きません。
福音主義を信奉する世代は人としてのイエスを認識しつつ育ってきました。彼等はイエス様が地におられた時、奇跡を行ったし、また今も世界中で奇跡を行っている事を知っています。彼等は自分達がイエスによって救われ、神の御霊が御言葉を心に住まわせる事を知っています。現に彼等は聖書に書かれている全てを信じます。しかし、彼等はキリストを今の、彼らの人生での現実として神を認めません。
知っている通り、キリストとの交わりを容易く証できますし、涙を流して礼拝しますし、また私達は神の友と言えるでしょう。しかし、不可能を可能にする神として神を受け容れるべき時、試みと苦しみの時が来ます。
聖書は主が人を偏り見ない方で、「他の所で行われた偉大な業」を誰とも行いたいと願っています。しかし、信仰が揺れるなら、神の手は働く事が出来ません。「そして、そこでは(イエスは)力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。」(マルコ6:5)
間違ってはいけません。神の力がナザレの里で弱まったのではありません。イエス様は完全な力、奇跡を働かせる力で、奇跡を行い、癒し、元気付け、大いなる業をなすために待っていました。しかし、遂にイエス様は断言しました。「ここでは働く事が出来ない」。何故でしょうか。「彼らの不信仰を驚き怪しまれた」(マルコ6:6)と聖書は記しています。言い換えれば、自分の故郷の人達が神の業を見たり、聞いたりしないことが驚きであり、彼等が伝え聞いた人たちの証を受け入れないのがイエス様は信じられませんでした。そして、イエス様は彼等を捨てておきました。
主は不信については何もなさず捨て置きます。主はその民が「イスラエルの聖者を限らせる」時嘆きます。(詩篇78:41)
不信仰があるとき、死の、乾き切った荒野があります。人々は希望が全くない状態になります。しかし、現実には「死んだ場所」等はありえません。ただ、死んだクリスチャン、信仰のないクリスチャンがあるのみです。神には難しい事などありえません。
以前、私が幼い時、ある伝道者の方-名もない信仰の人-が国を救う神の幻をもってアルゼンチンに行きました。この人は偉大な説教者でもなく、だだ真の信仰に促された人です。彼は小さな教会で語り始めました。「若しあなたが神を信じるなら神が戸を開くであろう。沢山の人達を救うだろう。その御言葉を語るときである」。
主はこの人の信仰に答えました。沢山の人達がキリストに帰依して、神の大きな動きが国中に広まりました。ペロン将軍の親戚が奇跡的に癒され、この謙った伝道者を助けました。そして、伝道集会が大きなスタジアムで開かれ、二十万人もの人達が参加しました。時には、その伝道者はペロン将軍とともに祈る機会も与えられました。神の大いなる業は今もアルゼンチンで続いています。
神を願うブラジルの牧師達は神が-他の場所で-アルゼンチンでなさっておられる力ある業を風の便りで訊きました。そして彼等はそこに行ってその働きを見ました。そして彼等が見て信仰に火がつき、彼らの心は自分達の国で神の力ある働きを見たいと燃やされました。そして、ブラジルで御霊の大いなる動き、沢山の人達が救われリバイバルが起こりました。今でもその偉大な働きは沢山の信者によって引き継がれています。
チリでも神がブラジルでなさっておられる-他の場所で起きている-事を牧師先生達が聞きました。彼らもその火に促されました。彼等は「主よ、あなたがブラジルでなさっておられるなら、こちらでもあなたはなす事ができるでしょう」と祈りつつ、信仰を語りました。その結果としてチリでは、推定30%もの人達が福音的なクリスチャンとして数えられ、キリストの御体に加わっています。
アルゼンチンの隣はウルグアイです。その国は嘗て神の力ある働きを見た事がありません。この文を書くこの時に、私達の働きのチームはその国で2000人規模の牧会者の集会を計画しています。その集会で私は今皆さんに書いている事を、「信仰が在る所に、他の国で働かれた同じ神があなた方の只中で動かれるのを願っている。神は人を偏り見ないからである」と語ろうと思っています。
私達はただ主が他の人達になさった奇跡を聞くだけで満足すべきではありません。私達の心のとこかでこう囁いているのではありませんか。「これらの事をただ賞賛するだけでは足りない。主よ、あなたが他の場所でなさった事を私達の只中でしてください」。
何年か前に、神様は私にニューヨークに行って、ストリートギャングに福音を語りなさいと告げました。人々は、薬中やアル中は直った例がないから、あなたは馬鹿にされるだけと言いました。また、ギャングは田舎牧師に耳を傾けないと忠告されました。しかし、私は神が与えた言葉を信じました。その時にはお金も、計画もなく、たた単純な信仰しかありませんでした。
すぐに、神は極悪のギャングのリーダ、ヘロイン中毒者を救いました。そのギャングリーダの名は、今や全世界で働きをしている、ニッキー・クルーズです。また、そのヘロイン中毒の人は、200もの教会を開拓して監督している、ソニー・アルゴゾー二です。それは神が中毒者やギャングや若者達への神の業のはじめで、その業は今なお続いています。ティーン・チャレンジーは世界中で520ヵ所のセンターを運営しています。それは、その国の人々が神が他の場所の噂を聞くことに満足していなかったからです。
ナザレの場所でも、今日の多くの教会のように、不信仰は一つの原因に辿る事ができます。人々がイエスを真に神として信じられないからです。彼等はイエスを、肉体を着た全能の主と見ませんでした。彼等はイエスと不可能を可能にする神と信じられませんでした。彼等はその疑問を大っぴらに話しました。サタンとその取り巻きはこの事態の信仰者の言葉に注意しました。その呟きや疑問を聴いた瞬間、彼等はその人達の心に自分達の足掛を確保したのです。不信仰は悪魔のあらゆる偽りに心を開くのです。
愛する皆さん、イエスが御父にあって信頼し豊かであったように、私たちの信仰も同じようにあるべきです。「キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。」(ヘブル3:6、斜体に注意)
ですから、全ての信仰者は三つの事をするべきです。
「悪魔…は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」。(ヨハネ8:44) この箇所はサタンを「全ての偽りの父」と明らかにし、謀悉く彼の企てであり、実行者でもあると定めています。彼は全ての嘘を生むものです。
神はサタンの偽りについて、特に末の日に、教会に注意を促しています。「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。…われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。…へびは女の後に水を川のように、口から吐き出して、女をおし流そうとした」。(黙示録12:9-10,15)
ここで「川のよう」にと表現されているのは何のことでしょうか。それは神の聖徒の平安と確信と揺らす偽りの川を意味します。サタンは私達に神の忠実さへの疑いを植え付け、罠に陥れようとします。
悪魔は誰に嘘をつくのでしょうか。神ではありません。サタンはそんな事をするほど愚かではありません。罪人にでもありません。彼等は既にサタンの偽りに捕らえられています。否、悪魔は信仰者、神にあってその心が固く立ち続けている真の求道者たちに偽ります。この上、もっとその対象を絞る事ができます。サタンはその叱責-サタンの緻密な説得力のある偽りを、神の約束した平安に入ろうとする者達に図ります。
「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」。(ヘブル4:9-11)
ここでの「神の安息」とは何を意味しているのでしょうか。それは主の約束に全てを信頼するところです。「神の安息」は恐れや疑いの苦闘は最早なく、固い信頼があるのみです。それは神が常に私達が共におり、私達を見捨てなく、私達を見ておられると信じ続ける事です。
この信頼の新しい人生に入ろうとする時-あなたの肉が十字架につけられ、全てを主に委ねようとする時-かの古き蛇は新しい理由であなたを責めます。その蛇は私達が主へ聖別されている事を、神が私達を召した業を全てしたいとの願いも知っています。ですから、サタンは私達の良心に的をあて、私達がする全てを嘘で攻撃します。
サタンの目的はあなたの信仰です。もしあなたの信仰が育つなら、彼の偽りが最早効力を成さない事をサタンは知っています。
第一の偽り: あなたは何も霊的に成長していない。
悪魔は囁きます。「あなたがどれだけ神を請い求めているかは関係ない。あなたが自分を否定し、学びを受け入れ、いつもイエス様と歩もうが、あなたは未だに弱く、恐れている。あなたはこれだけ与えられているのに、あなたはちっとも変わらないではないか。白髪になってもあなたが霊的に成長することは無理だ。あなたは落ちこぼれで、他の人があなたを通り越して行くだろう」。
第二の偽り:あなたは弱すぎて霊的戦いには合っていない。
サタンは囁きます。「あなたは力無く、疲れ切っている。
あなたには戦い続けていく力はもうない。この霊的戦いは分が過ぎるものである」。ある信仰者達にはこんな偽りが囁き続けられています。「あなたに何の希望があるだろうか。力を抜いて、そんなに急いでどうする。諦めなさい。あなたは疲れ切っている。」これは私が聖書を読み祈る時、何度も聞いている嘘です。
私達のミニストリーに寄せられた女性の手紙でこう言うものがありました。彼女はある十年の間、激痛に悩まされたとのことでした。彼女は「私の望みはただ一時間でも痛みがないのが全てでした。それが主を仕える事意外唯一の私の望みです」。彼女の言葉には諦めが満ちている感じでした。
多くの人達は神が物事を変える事を諦めてしまっています。今この時、私は息子グレックの脊椎の手術について主を信頼しています。また、私は私の孫娘ティファニーの死に於いても神を信頼しなければなりませんでした。私はこれらの試みを神の御手に委ね、彼等を通しての癒しを祈りました。私は私の試みを通した信仰なしでは神を喜ばす事は出来ません。
ダニエルはサタンが沢山の聖徒を諦めさせる事に成功すると警告しています。「『悪魔』は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる」。(ダニエル7:25)ここで「悩ます」と訳されている言葉はヘブル語で「精神的に疲れさせる」の意味です。
サタンは私達を疲労の霊に屈服させ、私達を諦めさせようとします。それが私達の信仰をサタンが盗む方法です。皆さん、あなたが物理的に疲れているとこんな嘘を信じやすいのです。年を取ると体力が衰えます。私が嘗て何時間も祈りに費やすような同じ力は私にはありません。あなたがどれだけ忠実であっても、老いによってあなたの体は力を失うのです。しかし、一つだけは変わりません。それは信仰の炎です。わたしの死の日まで主に捧げられるのは主にある私の信頼です。
「私は精神的に限界で、全く疲れ切っている」といった事があるでしょ。それは罪ではありません。罪は神の約束の力を信じない事から来ます。私達は悪魔の偽りを信仰によって防がなければなりません。私達は「主が成す」という観点から決して離れないように願います。
第三の偽り: 神はあなたと共に居ない。あなたは神を悲しませる何かをしたに違いない。
悪魔は囁きます。「神はあなたをまだ愛しているが、神はいまあなたとはいない。あなたに何か神を喜ばせない、あなたが気づかない何かがある。今は神の祝福があなたから取り去られている」。私達の敵は、突如、御言葉の言葉尻を捉えてあなたを責めます。「イスラエルが主を満足させなかったから、主は彼等を去った。あなたが御言葉で恵みを得られないのも、あなたの問題や試みもあなたが主と共に居ない証拠ではないか。御霊はあなたを去ってしまっている」。
この嘘をサタンはギデオンの心に植えつけました。イスラエルはミデアンの人達の手に渡され、彼等に厳しく扱われました。しかし、神の霊はギデオンに言いました。「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。(士師記6:12)
ギデオンはこれを聞きましたが、イスラエルの置かれた悲惨な状況を見て、神の言葉の代わりに悪魔の嘘を信じました。彼は神に問います。「主がわたしたちと共におられるならば、どうしてこれらの事がわたしたちに臨んだのでしょう。わたしたちの先祖が『主はわれわれをエジプトから導き上られたではないか』といって、わたしたちに告げたそのすべての不思議なみわざはどこにありますか。今、主はわたしたちを捨てて、ミデアンびとの手にわたされました」。(6:13)
神がイスラエルを戒めるためにミデアンの人たちにイスラエルを渡されましたが、神は彼等を決して見捨てたわけではありません。
モーセもイスラエルに堕落の時が彼等にあると警告しています。イスラエルは偶像を作って、それに礼拝し、神の御前で悪を行います。真にこの罪はイスラエルの存亡を脅かします。彼等を地の果てまで散らし、彼等は少数となります。
しかし、この厳しい預言の言葉にあっても、モーセはそれに続く主からの言葉を信頼し、不信仰を退けます。「しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。後の日になって、あなたがなやみにあい、これらのすべての事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう」。(申命記4:29-31、斜体に注意)
私達には主からもっとはっきり言われています。「主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。だから、わたしたちは、はばからずに言おう、/「主はわたしの助け主である」。(ヘブル13:5-6)「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ28:20)
「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。」(ヘブル3:12) ここで著者は兄弟達-聖徒達、信じる者-に文を宛てました。彼は罪人にではなく、神に召された同労者に向けて話しています。「クリスチャンのあなた方、気をつけなさい。あなたの心に不信仰の悪い心があるのではありませんか」。
ヘブル書の著者は不信仰な悪い心と心を頑なにする事と神から離れる事を全て結び付けています。事実、不信仰は危険なものです。何故ならそれは心をコンクリートのように頑なにするからです。神に涙を流し、叫ぶと同時に心が頑なな事もあるのです。
私達がイスラエルに起きた事を知っています。神はカナアンの地に行き、その地を得ようと命じました。イスラエルの人々は行く事を拒み、その地を窺った十人の斥候の「悪い報告」を信じました。彼らの不信仰は彼らの信仰と神への信頼を壊しました。ですから、主は彼等を荒野で40年間彷徨う様にされました。
彼等は遂に戦う事を決めたのですが、それには神が共にいませんでした。そして彼等はアモリ人に敗北しました。聖書は彼らについてこう語っています。「あなたがたは帰ってきて、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞かず、あなたがたに耳を傾けられなかった」。(申命記1:45)信仰無き涙など無意味なのです。
キリストの復活の後、十一弟子の心は不信仰によって頑なになっていました。彼等はイエス様が甦ったのは知っていましたが、彼らの心は疑いでいっぱいでした。その時、起きたのはこうです。
「週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。…マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。」
「その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」。(マルコ16:9-14)
終わりの所でイエス様は彼らの不信仰と心の頑なな事を結び付けます。ギリシャ語では、頑なは「瘡蓋」に関連があります。キリストは弟子達のことが気に入りませんでした。イエス様は彼等を厳しく責めました。彼等を叱責したのです。
「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。ヘブル(4:15-16)
私達はキリストに何でも願う事ができます。しかし、その恵みの御座はイエス様が私達を助ける事を説得する場所ではありません。イエス様に説得は要りませんし、私達が受けるべきものは与えたいと願っています。
私達はこの宇宙を収める主権者の玉座の部屋に招かれています。「そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない」。(ヘブル4:13)
全ては主に裸であり、開かれています。主はあなたの過去、あなたの今やあなたの未来を知っておられます。主はあなたの側にいるだけではなく、あなたが大胆に主に進み出る事を待っておられます。
主は愛と慈しみが深い方で、あなたが必要な時助けようとしておられます。主は私達が通っている全てをご自身で体験されたので私達を憐れんでおられます。端的に言えば、私達は主に説明が必要ないのです。「イエス様、あなたは私がどんな処を通っているか知っておられます。言葉で説明し得ません。あなたもこんな体験があるでしょう。助けて下さい」。
これらの全に於いて、神の臨在に不信仰の冒涜を持って入ったりしてそ臨在を汚しではなりません。その代わり、私達は自分に言い聞かせ、納得させなければなりません。「しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、」 (ユダ20)
聖徒の皆さん、これを私達の祈りとすべきではありませんか。この日に「主よ、分かりました。あなたが他の人になさったように私の人生に行ってください。ここでなさってください。他の場所で行われたように」
「私があなたの御旨を諦めそうになるときに、あなたが私に力を与え、私を立たせると信頼します。私は自分の疑いに安住したりしません。私は必要な時行ける場所を知っています。私は他の人を見て私の霊性を判断しません。霊的成長は全て主に委ねます。」
「決して悪魔の嘘に耳を傾けません。その代わり御言葉にあって信仰を増すようにします。私は信仰なしではあなたを喜ばす事ができない事を知っています。アーメン」。
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