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信仰によって生きること

by David Wilkerson | February 9, 2009

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February 9, 2009

「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)この言葉はクリスチャンに馴染み深い考えを強調しています。何世紀に渡って、「信仰によって生きる」はその世代の信仰者を動機付けました。

ハバククの預言は「信仰によって生きる」考えを最初に言ったものです。後に、新約聖書で使徒パウロはこの言葉を三度引用しています。現代にも,ハバクク二章4節は最も語られる御言葉の一つです。この言葉はまた、教会の教理の基本を形作りました。「信仰に生きる」は如何にわたし達が義とされ、聖別され,わたし達が平安と喜びに満ち、罪に勝利するかを語る言葉です。ハバククの力強い言葉を実践して得られるものです。

しかし、この言葉の時代的背景にわたしは焦点を当てたいと思います。ハバククが「信仰に生きる」と言ったのはイスラエルが来るべき危機に対処する術を教えるためでした。ここに降り掛かる災難を人々が通り抜けることを助ける永遠の真理があります。この真理は今と同じ状況で与えられました。

ハバククは主からイスラエルに迫る破壊を知らされる重荷を背負わされました。当時、神の法は無視され、嘲られました。裁判は狡猾な人の側に立ち、富む人は神の律法を利用して,貧しい者を搾取し、詐欺まがいの方法で富を蓄えました。社会は物欲に囚われていました。

ハバククは神が彼に見せた全てに深く悲しみました。聖書は「“the burden which Habakkuk the prophet did see”.― 預言者ハバククが見た神の託宣」(ハバクク1:1キングジェームス訳)は「重荷」と書いています。宮に世的なものが浸透し、倫理観は周りの国に影響され崩壊しました。ハバククはこれを見て、叫びます。「主よ、何という罪でしょう。何故悪しき者が正しい人に勝るのでしょうか。」

「あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。略奪と暴虐がわたしの前にあり、また論争があり、闘争も起っている。それゆえ、律法はゆるみ、公義は行われず、悪人は義人を囲み、公義は曲げて行われている。」(ハバクク1:3~4)

ハバククは主にいつまでそのような行いをお許しになるのかを訊きます。「あなたは目が清く、悪を見られない者、また不義を見られない者であるのに、何ゆえ不真実な者に目をとめていられるのですか。悪しき者が自分よりも正しい者を、のみ食らうのに、何ゆえ黙っていられるのですか。」(1:13)「主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、あなたは助けて下さらないのか。」(1:2)

「諸国民のうちを望み見て、驚け、そして怪しめ。わたしはあなたがたの日に一つの事をする。人がこの事を知らせても、あなたがたはとうてい信じまい。」(ハバクク1:5)これは「わたしはこの地を裁くために訓戒の棒なる国を定め、それが我が旨を行う。そのことは速やかに、徹底的に行うから、あなたはそのことが信じられまい。」と主がハバククに言っているのです。

神の「訓戒の棒」についてハバククは託宣を受けました。「見よ、わたしはカルデヤびとを興す。...地を縦横に行きめぐり、自分たちのものでないすみかを奪う。」(1:6参照)

この戦慄の幻はハバククを芯から揺らしました。「わたしは聞いて、わたしのからだはわななき、わたしのくちびるはその声を聞いて震える。腐れはわたしの骨に入り、わたしの歩みは、わたしの下によろめく。わたしはわれわれに攻め寄せる民の上に/悩みの日の臨むのを静かに待とう。」(3:16)

ハバククは神の召命、預言者としての召しを受けました。イスラエルの残っている神の人達は彼に訊きます。「どうわたし達はこの災厄を切り抜けるのだろう。もし、わたし達と周りの国が神の裁きにあうのなら、わたし達は何をしたらいいのだろう。生きていけるだろうか。主はわたし達に何をせよと仰せられるのか。」

多くの災難が降りかかる今の世界、神の民は同じ事を問います。ある事件は明らかに神から出たものです。今一度神は物欲とソドムのような倒錯を裁くため、貧しい者を騙し、寡婦を掠める者を罰するため、訓戒の棒を挙げます。

ハバククが先に起こることを託宣されたとき、どうしたのでしょうか。かれは主への祈りに入りました。彼は神がその民へ与える言葉を待ちました。彼はこう祈りを始めました。「わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについて/わたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。」

ハバククは既に神がどうして祈りの答を遅らすかを神に問いました。「主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、あなたは助けて下さらないのか。」(1:2)わたしはハバククがヨナ症候群持っていたかなと思います。ヨナのように、神が裁かれるとき、「わたしが言ったでしょう」とまでは言わないでしょうが。

主はハバククに言葉を与えました。そして、それはかの預言者の祈りをこう変えました。「あなたは何故裁かれないのか。」から「主よ、あなたが裁かれるとき、あなたの慈しみを覚えてください」に変わりました。「主よ、わたしはあなたのことを聞きました。主よ、わたしはあなたのみわざを見て恐れます。この年のうちにこれを新たにし、この年のうちにこれを知らせてください。怒る時にもあわれみを思いおこしてください。」(3:2)

ハバククが受けた詔は当時だけではなく、全ての世代、わたし達の時まで継ぐ言葉です。「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる」(ハバクク3:2) 神は、この言葉が自信と、人の約束に信頼する、肉に行動する人達のためではない事をはっきりさせました。

神の家でも人々は政府の財政措置に希望を託しています。-職場を与え、金融を立て直し、経済を救うべく何兆ドルかを放出する予定です。彼らはわが国の賢い指導者がわたし達の問題を解決し、繁栄に取り戻す事を願っています。お、何と傲慢でしょう。お金は人の道を正しません。わたし達のお金は神の義なる御旨を堪えられません。

「信仰によって」が神の民にとって災いや試みに直面しうる唯一の方法です。これがハバククの時に於いて唯一の道であり、全ての旧約の世代の唯一の道であり、新約の時代でも唯一の道です。今の災いの中でも、同じ基礎的な真理はいきています。「義人は信仰によって生きる」

では、信仰によって生きるとはどういう事でしょう。神の言葉は、単に信じる以上のことを意味していると示しています。「信仰によって生きる」とは神の手と聖さを災いの中で見出すことです。「主はみずからを知らせ、さばきを行われた。」(詩篇9:16)

「主よ、あなたのみ手が高くあがるけれども、彼らはそれを顧みない。」(イザヤ26:11) この世は神の御手が戒める時、それを見出せません。しかし、信仰よって生きる者にはその知識が与えられます。「わたし達は神の御手の業を見ている。これによって神の聖さがたてられ,神はご自身の言葉を守られる。」

もし、わたし達が信仰に生きるなら、わたし達は神の力に対して畏怖の念を抱きます。そして、神の大いなる力が今の世界に働くことを見出す事も然程難しくはありません。御言葉が言っています。「富める者の富はその堅き城である」(箴言18:11)そんな富を、神様はたった2週間で、強大で強力であったはずの信用金融制度を揺り動かしました。

では神の力以外何が、人が築き上げた富・何兆ドルを何週間で解体して、自信をなくすようにできるでしょうか。これは神の裁きです。そして、神の慈しみの中で世界的金融機関のなかで行われた詐欺を明らかにしました。神は義であられ、貧しい人を騙す住宅ローン会社の偽りを止めさせました。

神は裁きを良しとしません。聖書は神が裁きに喜びを見出さないといっています。しかし、御言葉は「モグラが全ての金銀を食らう」(イザヤ2:20参照)といっています。「主が立って地を脅かされるとき、人々は岩のほら穴にはいり、また地の穴にはいって、主の恐るべき御前と、その威光の輝きとを避ける」(2:19)これは神が全ての国へ大いなる恐れをもたらすと言っています。

大いなる力をもって全てをゆらす神がわたし達の盾であり、守り給う愛しむ御父です。イザヤが「彼ら(罪びと)の不公平は彼らにむかって不利なあかしをし、ソドムのようにその罪をあらわして隠さない。わざわいなるかな、彼らはみずから悪の報いをうけた。」(イザヤ3:9)と語っていますが、次の句で「正しい人に言え、彼らはさいわいであると。彼らはその行いの実を食べるからである」(3:10)この世の揺らぎはあっても、信仰に生きる人は安全に保たれます。

今、教会は神の主権と力について、ヨブが学んだように再度学ぶ時です。主は要約すればヨブにこう言いました。「あなたの暗い、希望のない話はたくさんだ。立ち上がって聞きなさい。」

「わたしは地の礎を据え、光と闇をつくった。雨、雪、氷、風を創造した。わたしは鳥に翼を与え、野の獣を養う。わたしは全てを治める。ヨブよ、誰がわたしのように雷をもって声とするのか。誰が人の心を調べ、その考えを知るのか。誰が高ぶるものを見分け、それを低くせしめるのか。」

愛する皆さん、高ぶる者の名と住まいを知る神はあなたの名と住まいと状態も知っています。そして神はあなたの日の全て、災いの全てを、御心にとめておられます。これを受け入れることが信仰によって生きることです。

もし、私が信仰によって生きるならば、私は災いの時に神の教会の末について恐れません。「そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」(マタイ16:18) イエス様はこの約束によって聖徒の信仰を力付けました。それは今起きている世界的危機の中でも我々を保っています。

同時に聖書は警告しています。「4:1 後の時になると、ある人々は、...信仰から離れ去るであろう。」私たちが生きる危機の時代に指導者が「信心深い様子をしながらその実を捨てる者」が起こります。この偽りのリーダのもと、多くの信仰者の愛は生ぬるく、また冷めるでしょう。また多くは信仰を失って、キリストより離れるでしょう。

しかし、ヨエルニよれば、神は同時に全ての肉なるものに霊を注ぐとしています。(ヨエル2:28-30参照)詩篇の作者も言っています。「あなたが霊を送られると、彼らは造られる。あなたは地のおもてを新たにされる。」(詩篇104:30) 神の霊は枯渇しません。神はまた御心のまま御霊を注ぎます。そして、注ぎが起きたとき、「その日には、もろもろの国ことばの民の中から十人の者が、ひとりのユダヤ人(信じる者)の衣のすそをつかまえて、『あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいますことを聞いたから』と言う」。」(ゼカリア8:23)としています。

分かりますか。災いの中で、大いなる収穫があります。信じない者は信仰者に向けて「神が共に居るのが見える。どうして、平安を得られるか」と言うでしょう。

“「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り」(ヘブル11:7) ノアが造った箱舟はイエスキリストを象徴しています。そして、この世に災いから隠れるところはありません。イザヤが義に立つ王が来られると預言したとき、彼は「おのおの風をさける所、暴風雨をのがれる所のようになり、かわいた所にある水の流れのように、疲れた地にある大きな岩の陰のようになる。」(イザヤ32:2)と言ったのは明らかにキリストの事です。

世界中で人々はお金の安全な隠し場所を必死に探しています。また、人々は自分で自分を守らなければならない暗い時が来るので、家族を守るために銃を買ったりします。聖書を信じるクリスチャンさえそうです。

そうしても、イエスに繋がる以外には、安全を保障できません。このことは、空虚な神学の論理ではありません。二千年間、イエスを信じた者達は神の御言葉が忠実であることを証ししています。「主の名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救を得る。」18:10

私たちは又イエスを信じた者達がどのように苦しんだかも知っています。十字架の時より、彼らは、殉教しました、時には惨いかたちで。ある新約の信仰者は家と土地を取られ、穴倉に住みました。その後にも人々は、災いにあい家や職を失い、戦争で死んで、天災で命を失いました。

愛する皆さん、真の神の御言葉のメッセンジャーは「あなたが財産を決して失わない、あなたの生活レベルが必ず守られる、苦しまない」と約束しません。しかし、天の証人が雲のように集まってイエスを愛する私たちに言います。「キリストにあって私たちは永遠に保たれるのは真です。神の恵みは全ての危機に充分です。そう、痛みや苦しみや災難の時もあります。しかし、どんな試みもキリストから、救いの箱舟から離すものはない。」

第一ペテロの1:3~9の素晴らしい約束を皆さんに送り、閉めます。

“ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。

そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。“

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