皆さんは信仰の祈りという言葉を知っていると思います。それに対して、「肉による祈り」というものもあります。わたしはそれを「不信仰の祈り」と呼びます。
主は私達の祈りが充分では無いことを知っています。私達は、又、主の前で嘆くことも充分にしていません。そして、悲しいことですが、たくさんのクリスチャンの祈りが、不信仰の祈りであるために、神に全く受け入れられません。聖書は、主がそれを罪と見ているとさえ言っています。
皆さんは主にこんな風に言われたことがありますか。「祈りを止め、立ちなさい」と。聖霊様にこう言われたことはありますか。「泣くのを止め、涙を拭きなさい。何故あなたは平伏し、祈っているか」と。
皆さんは「神様がそんな事は言わない」と思うでしょう。しかし、主なる神は全くその通りの事をモーセに仰せられました。
「 主はモーセに言われた、『あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。』」出エジプト14:15
この「わたしに向かって叫ぶ」は、ヘブル語で原語通り訳せば「何故、あなたはわたしに怒鳴っているのか。わたしの耳に聞こえる、この大声の嘆願はなんであるか」と言う意味です。
こんな事を神様は何故、モーセに言ったのでしょうか。モーセは、危機の際に神へ祈る、また神に従う人でした。あの場面は、イスラエルの民がエジプトの王に窮地へ追いつめられた時でした。横は双璧の山、前は海原が横たわっていました。ですから、モーセは、自分の祈りに多くの人たちの運命が左右されることも知っていました。
あなたがモーセの立場だったら、どうしますか。それまで、モーセの歩みは神の召しに忠実に従うものでした。彼は、また、そこで起きている状況が神に定められていることも知っていました。でも、知っていて、従うべきであ ったにも関わらず、モーセは「人殺しモーセ。エジプトには私達を葬る墓がなったのか。私達の屍(しかばね)を曝しに荒野まで来て」と何千人がどよめく声で戦(おのの)いてしまいました。
殆どのクリスチャンはおそらく次のモーセと同じ事をするでしょう。モーセは人と離れ、丘に行き、ひとりで主と交わろうとしました。彼は祈りをもって、心を注ぎ出します。前掲の個所での「怒鳴る」とか「大声の嘆願」という言葉は、モーセが心底叫んでいたことを語っています。
あなたはモーセのように混乱したことがありますか。自分が四面楚歌の窮地にいた時を思い出して下さい。あなたは、人がいないどこかに行き、主とだけ交わろうとします。そして、あなたは叫びます。大声で叫び、心にあることを注ぎ出します。涙が涸れるまで泣きます。
私達の神は慈しみ深い父ですから、こんな私達の祈りに動かされます。神は全ての真剣な祈りに答えられます。神は大声で祈ることを勧めてさえいます。
聖書はイエス様ご自身も
「激しい叫びと涙とをもって・・・祈と願いとをささげ」ヘブル人の手紙5:7
たと言っています。
わたしも大声で祈り、叫んだ覚えがあります。娘のボニーが癌のコバルト線療法を受けていた時の苦悩です。彼女は三日間隔離された病室に入って、医者だけが鉛の被爆保護服を着け彼女と接する事ができました。妻のグエンと私は外にいて、出来ることと言えば我が娘の境遇に泣くことだけでした。
そんな時、私は病院を出て、人気のない田舎道を抜け、車で野原に行きました。車を止め、外に出て、3時間ほど叫びました。大声でわんわん泣きました。「最初はグエンが癌に、次は娘デビー、今度はボニーにですか。神よ、これはいつ終わるのですか。」
私は主がその叫びを聞かれたことを知っています。また、神は私の痛みによって動かされるのも知っています。このように、神に向かって叫ぶこと自体は問題ありません。神は私達の苦悩を聞き、その重荷を分かち合いたいのです。しかし、叫びでも不信仰によるものであるなら受けて下さいません。もっと詳しく話しましょう。
あなたは神がモーセの苦悶に満ちた祈りを喜ばれたと思ったのでしょう。かのイスラエルの指導者は何時間も叫びました。「どうすれば、いいのですか。一縷(るい)の望みもありません。わたしにどうせよと言われるのですか。どうぞ、仰って下さい。助けて下さい。」
人は時に夜通し泣き、祈りの中で苦悶することもあるでしょう。しかし、神はモーセが叫ぶ声を聞き、「もうたくさん」と言われました。聖書には神からどんな言葉が次いだのかはありませんが、「モーセよ、あなたは我が前で苦悶する権利はない。あなたの叫びは我が忠実さに侮辱である。わたしはあなたに確固たる約束を既に与え、なすべき事を教えた。もう、叫ぶのを止めよ。」と言ったと思います。初めから、神はモーセに全ての計画を示されています。実は、モーセは沙漠で羊を飼っているときに、その全容を学んだのです。
「あなたがエジプトに帰ったとき、わたしがあなたの手に授けた不思議を、みなパロの前で行いなさい。」出エジプト記4:21
この言葉で、言い換えると、神は「わたしはあなたがすべきことを示した、モーセよ。さー、行って、行いなさい。」と言っているのです。
それでモーセはパロの前で不思議を行い、十の災厄をエジプトにもたらしました。全てが神の約束された通り行われました。それにも拘(かか)わらず、モーセは紅海を前に苦渋の祈りをしたので、神は前の約束を思い起こさせました。神はこう言ったに違いありません。「今は苦渋の時ではない。モーセよ、行動せよ。」と。
聖書はモーセが神に従う、謙遜な人と言っていますが、ここで見る限りモーセには不信仰の根があります。考えてみて下さい。神がモーセをイスラエルの民を救うために召した時に、神は彼が言うことに人々が耳を傾ける声を授けると約束されました。
「彼ら(あなた方の兄弟)はあなたの声に聞き従うであろう。」出エジプト記3:18
しかし、モーセは信じずに
「しかし、彼らはわたしを信ぜず、またわたしの声に聞き従わないで言うでしょう、『主はあなたに現れなかった』と」。出エジプト記4:1
言いました。
それで、神はモーセに更に約束します。「恐れるな。わたしがあなたと共にいる。あなたは我が民に大いなる救いをもたらず」。しかし、またもやモーセは不信仰で応えました。
「ああ主よ、・・・わたしは口も重く、舌も重いのです」。出エジプト記4:10
モーセのこのやり取りは、実際、神が彼に雄弁の才能を与えなかったと責めています。
「わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。」 同4:10
端的に言えば、モーセは「他の人を送って下さい。主よ、私は相応しくありません。」と言っています。
このモーセの不信仰はなんと愚かなことでしょう。神の力強い言霊(ことだま)によって、この人は既に信じがたい不思議を行いました。自分の杖が這う蛇に変わり、彼がその蛇の尻尾を掴(つか)めば、杖に戻りました。また、自分の手を懐に入れれば、手は癩(らい)にかかり、再びその手を入れて戻せば、健康で綺麗な手になりました。
これ以上、雄弁で力強い言葉が望めるでしょうか。もし、モーセのこんな不思議を見ていたら、彼の舌が縺(もつ)れているとか、話が吃(ども)るであろうが、私は彼の話を聞くでしょう。彼が一言も語らずとも、彼の存在自体が私の内に神の畏(おそ)れを抱(いだ)かせるでしょう。何故なら、御霊による力の顕現(けんげん)があったからです。新約聖書で使徒パウロはこの力について証しています。彼自身は口べたであったが、御霊の力によって語ると言っています。同じ事がモーセにも言えるのではないでしょうか。
そして
「主はモーセにむかって怒りを発し」同4:14
と書かれています。「怒りを発し」と書かれていますが、言い直せば「神はモーセに怒った」のです。主なる神は如何なるモーセの偽りの謙遜をも拒みました。それは、モーセの召しを損なうものであったからです。神はモーセが「私は相応(ふさわ)しくありません」、「私には知識がありません」とか「私には才能がありません」と言わせませんでした。
主なる神はモーセにこう言ったに違いありません。「そうではない。わたしは他の人ではなく、あなた、モーセを選んだ。雄弁や知識や、又はその両方を備えた人を探していない。あなたは選ばれたのは自分であると認めなさい。わたしがあなたを選んだのであって、あなたはそれを拒めない。」
「わたしはあなたの弱さを知っている。あなたが自信を持てないこと、後ろ向きなる傾向、人と比べてしまうこと。あなたは自分が取るに足らない者と思っているが、あなたが生まれる前から定めたあなたへの計画を変えるつもりはない。逃れられない。わたしはあなたに多くを求めていない。唯、あなたはわたしが約束したことを信じ、それを行いなさい。全能のエホバの神があなたともにいるのを信じなさい。あなたの弱さではなく、わたしに目をとめなさい。」
モーセはイスラエルの民に促しています。
「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。・・・・・・・・・・・主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。出エジプト記14:13~14
この宣言はモーセが神のなさる事を知っていたことを示しています。これを言った直ぐ後、モーセは不信仰に陥ります。それはモーセが独りになり、神に叫んだ時です。それは主なる神がイスラエルの民を見捨てると思ったからですか。いえ、モーセは自分の召しが全う出来ないことを恐れたからです。恐らく、彼は間違ったことをしてしまうのではないか、神に喜ばれないことをするのではないか、神への信仰が充分ではないかが不安になったのでしょう。
こんなモーセが後に祈りの大勇者となったのを皆さんは知っておられるでしょう。彼はそれまでに無い、またそれからもない、神と顔と顔を合わせる、親しく交わる体験をします。また、モーセは四十日間神と語り合い、顔が不思議に光ることになります。彼の歩みでこの全てが起きるためには、神はモーセに「時というもの」を、祈る時、行動する時を教えなければなりませんでした。モーセは神に叫ぶ時や、唯従う時がどんなものかを学んだのです。
この紅海の畔(ほとり)の祈りは全くの不信仰なものでした。その理由は、神は既にモーセに杖をのばせと言っていて、もし、そうするなら神は水を分かたれようとしていたからです。
「『イスラエルの人々に語って彼らを進み、行かせなさい。あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。』」出エジプト記14:15~16
この言葉は叫びの祈りで頂いたのではありません。神は、このこと(言)を、久しく前に、彼が羊飼いの頃、語っているのです。
「『あなたがエジプトに帰ったとき、わたしがあなたの手に授けた不思議を、みなパロの前で行いなさい。』」同4:21
それで、主なる神はモーセに言われたのです。「喚(わめ)くのを止めなさい。夜通しで、泣き叫ぶ理由はない。わたしは、既に霊的権威を以って、この危機に対処するように、あなたに命じたのではないか。わたしはあなたが出会う危機をうち破ると約束した。信仰によって歩みなさい。小一時間もすれば、あなたは喜びで踊っているであろう。」
私達は危機にあったとき、自分に言い聞かせます。「祈りこそ、今の私にとって最も重要なことだ。」しかし、ある時はそうではなく、行動すること、御言葉に立ち信仰を立ち従うことを求められる時もあるのです。そんなときは、神は、私たちに荒野に退き、祈ることをお認めになりません。その祈りは不従順であり、不信仰のものだからです。
ヨシュア記七章に全イスラエルの民が嘆きつつ、祈っている場面が記されています。アイの戦いで、彼らは敗れ、追われたからです。ヨシュアは祈りの日を宣言し、民は、御前で、哀れみの御座にて御顔を求め、祈りを捧げています。その時、あなたが、イスラエル陣営を歩くならば、これは大きなリバイバルが興されていると錯覚するでしょう。全での民は嘆き悲しみました。男は顔を伏し、衣を裂き、塵(チリ)に座し、女は顔を隠し、泣きました。ヨシュアと民の指導者らは平伏し、悲しみに暮れました。
しかし、これは悔い改めの集いではありません。彼らのうちに神の臨在があっての集いではなかったのです。返って、神はこの集いにお怒りになっておられました。
「それで主はイスラエルの人々にむかって怒りを発せられた」ヨシュア記7:1
これは神に対する糾弾(きゅうだん)の集いでした。人々は訴えました。「主なる神よ、何故私たちは勝利しなかったのでしょう。あなたは戦いに介入し、敵を負かすことが出来たはずです。しかし、あなたはそうなさらなかった。あなたは、私たちの力だけで戦わせ、敵に私達は敗北しました。私たちの契約は、必要なときに、どこにありますか。」が彼らの祈りだったでしょう。
アイへの敗北はヨシュアを完全に打ちのめました。イスラエルは、先頃、強大なエリコに大いなる勝利を収めたばかりでしたが、今度はこんな取るに足りない、小さい、敵に敗北しました。ヨシュアはどうしてか解りません。彼は祈りました。「主よ、何故こんな事が。主の聖なる御名がかかっています。救主としてのあなたの誉れが地に落ちます。」
ヨシュアの祈りは霊による祈りに聞こえ、ヨシュアが主なる神がどのように見られるかに熱心であったように見えます。しかし、本文は
「『立ちなさい。あなたはどうして、そのようにひれ伏しているのか。』」ヨシュア記4:10
神は彼らに、冷たく、集いを止めるように命じ、続けて
「『イスラエルは罪を犯し、わたしが彼らに命じておいた契約を破った。』」同4:11
と宣べました。
これにはこんな意味が含まれているでしょう。「あなたはどれだけ祈っても、自分の罪に対処しなければ、あなたの敵に倒され続ける。」イスラエルの民はどんな罪を犯したのでしょうか。聖書はこう記しています。
「イスラエルの人々は奉納物について罪を犯した。すなわちユダの部族のうちの、ゼラの子ザブデの子であるカルミの子アカンが奉納物を取ったのである。」ヨシュア記7:1
アカンは明らかな神の言葉に従いませんでした。主なる神はイスラエルの民に言いました。「立ちなさい。あなた方の中から忌むべきものを取り除かない限り、あなた方の祈りは聞かれない。」
不信仰の祈りとは、神の良きことを盾に取り、神の聖(きよ)き裁きの厳しさを無視することです。使徒パウロは記しています。
「神の慈愛と峻厳(しゅんけん)とを見よ。」ローマ人への手紙 11:22
使徒パウロは慈愛と峻険を意図的に並べて言いました。彼はこの二つは表裏一体のものと言いたいのです。
旧約聖書では、イザヤは
「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。あなたがたの手は血で汚れ、・・・・・・」イザヤ書59:1~3
愛する皆さん、神は旧約も新約も変わりません。イザヤが言ったように神は愛と慈しみの神ですが、同時に、義と聖の神であるので罪を憎みます。ですから、神はイスラエルの民に「あなたがたの罪のために、聞くことができない。」と言ったのです。
これは今日の多くのクリスチャンに当てはまるでしょう。そんな信仰者は何時間も祈り、時には涙を流しつつ、徹夜の祈りをするでしょう。これらの努力に拘わらず、神は彼らの祈りをお聞きになりません。何故でしょうか。詩篇の著者はこう言っています。
「わたしは声をあげて神に呼ばわり、わが舌をもって神をあがめた。もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。しかし、まことに神はお聞きになり、わが祈の声にみこころをとめられた。神はほむべきかな。神はわが祈をしりぞけず、そのいつくしみをわたしから取り去られなかった。」詩篇66:17~20
詩篇の著者が言っているのは「私は自分の心に罪を見出した。私はその罪と生きる事を拒み、清められるべく主に行った。主は私の祈りに応えられた。もし、私が罪を保ちつつあったなら、主なる神は我が叫びを聞かれなかったであろう」です。
皆さんは、自分の配偶者に不誠実なクリスチャンの祈りを神がお聞きになると期待しますか。姦淫を犯している人が家族、仕事、歩む道について祈り、神はそれを聞くのしょうか。
「否」と預言者マラキはイスラエルの民に言っています。
「あなたがたはまたこのような事をする。すなわち神がもはや捧げ物をかえりみず、またこれをあなたがたの手から、喜んで受けられないために、あなたがたは涙と、泣くことと、嘆きとをもって、主の祭壇をおおい、『なぜ神は受けられないのか』と尋ねる。これは主があなたと、あなたの若い時の妻との間の、契約の証人だったからである。彼女は、あなたの連れ合い、契約によるあなたの妻であるのに、あなたは彼女を裏切った。」マラキ書2:13~14
預言者マラキは「あなた方はどうしてあなたの祈りが神に煩わしいものであるがを聞くが、その理由はハッキリしている。あなたは配偶者に意図的に罪を犯している。そして、厚顔無恥にも神があなたを喜んでおられると信じている。」
かの預言者は警告しています。そんな人たちに。「あなたは自分の罪を軽く捉えている。あなたが罪を保つほど、その罪を保つことになる。あなたは既に自分の配偶者より愛人といる方が霊的になると思っている。決して、そうではなく、あなたは神を恐れなくなっている。あなたが悪しきことを善きこと、闇を光とするなら、主はあなたの祈りを聞かないであろう。」
使徒ペテロも自分の妻を虐待する夫に同じような警告をしています。
「夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである。」Ⅰペテロ3:7
ここで「妨げられる」と訳された単語は「切られる」と同意語です。ペテロが言っているのは「毎日、自分の妻を虐待しながら、日曜教会に行って、自分の祈りが神に聞かれると期待するな。そんなことはキリストの業ではなく、悪魔の業である。神がその事を裁かれないと思うのか。言っておく。あなたの祈りは天から切られている。」です。
聖書は言っています。「あなたの罪が露わになるように」これは罪が公になる以上の意味があります。それは、祈りを含めた、あなたの全ての側面を言っています。そうでなければ、神はあなたの言葉をお聞きになりません。神との交わりが絶たれるのです。
イエス様はそうは言っていません。イエス様は御父が旧約の時代と同じように新しい契約(新約)でも義を要求されると述べられました。
「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」マタイの福音書6:14~15
あなたは自分が聖いとか思いますか。また、自分がキリストの義に繋(つな)がっていると信じることも出来ます。あなたは自分がキリストの血潮にて義とされ、信仰によって救われ、御霊により聖別されたと証しするかも知れません。あなたは毎日祈り、御言葉に日々精進し、貧しい者らに施し、御言葉の分かち合いに燃え、その上信仰の奇跡をおこないます。しかし、もしあなたに対する人の罪を許さないなら、それらはすべて無駄です。神はあなたの祈りを全く聞かれません。それはもとより、あなたへのご自身の赦しを止めてしまいます。
あなたは誰かに怒っていますか、絶対話さない家族がいますか。また、誰かを心で馬鹿(ばが)にしていますか。イエス様は宣言されております。
「しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。」
「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。」マタイの福音書5:22~24
キリストが言っているのは「断食しても嘆いても、祈りは聞かれない。先ずはあなたの兄弟や姉妹と正しくして、その後で祭壇に戻りなさい。」です。
ある牧師先生が最近、二人の牧師を和解させるのに悩んでおられるとご相談されました。二人は、一方の先生がもう一方の先生を訴え、裁判で数百万ドルの和解金を取って以来、犬猿の仲で、お互い敵意を剥き出しにしていたそうです。しかし、最近二人は和解をする気なったのですが,負けた方の奥様が「先の先生は赦せない、絶対口も利かない」と言っているそうです。この方は神の御業を直に妨げているのです。ここで彼女の悲劇は二重です。彼女は和解を妨げただけではなく、彼女自身を神からさえ切られることになるのです。神は彼女の祈りを聞かれません。そして、彼女が悔い改めるまで、神は彼女と和解なさらないでしょう。
また、人種差別によっても神の臨在から絶たれます。神は特に人種偏見を持つ人を忌み嫌われます。神は、ひどい人種差別の最中でその人種を隣り合わせ、礼拝することを助けます。逆に人種差別で冗談を言う人は災いです。主はそんな人達の仇となり、その祈りを神は嫌悪されます。
私達の教会は人種和解の働きには携わっていませんが、神は心の偏りを注意するように命じています。あなたはある政治家が嫌いで、そんな偏見を持つようになっていませんか。もしかしたら、家族が人種の偏見を持つ中、育ったのでかもしれません。極端には、行っていた教会に偏見を教わったから、差別するようになったかも知れません。あなたは、差別した人種全体に謝ることはできませんが、あなたの隣の信仰者には言えるでしょう。あなたは「私は主の前でそんな考えを謝ります」と言うべきです。
わたしは、今の説教の中で不信仰の祈りをついて話してきましたが,今度は信仰の祈りの模範を紹介しましょう。ダニエル書九章一三節にダニエルはイスラエルの祈りが七十年間聞かれなかったと述べています。
「この災はすべてわれわれに臨みましたが、なお、われわれの神、主の恵みを請い求めることをせず、その不義を離れて、あなたの真理を悟ることをもしませんでした。」ダニエル書9:13
イスラエルの祈りは何十年に渡り,罪によって阻まれたとダニエルは言っています。「神が何故わたしたちに聞かなかったかを、わたしは知った。私達は自分達の罪の問題を処理しようとしなかったからだ。わたしたちはそれを願わなかったので、神が顧み,祝福できなかった。」とダニエルは信仰もって祈ります。
「それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、断食をなし、荒布を着、灰をかぶって祈り、かつ願い求めた。すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、「ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。」同9:3~5
ダニエルが祈りを終わらないうちに、神は天使ガブリエルを彼に送ります。「わが神、主の前に願いをしていたとき、すなわちわたしが祈の言葉を述べていたとき、わたしが初めに幻のうちに見た、かの人ガブリエルは、すみやかに飛んできて、夕の供え物をささげるころ、わたしに近づき、」と記されています。
ダニエルは神ご自身に触れられました。すると、直ちにイスラエルは神の契約に戻されます。何故,彼の祈りはこんなに速やかに答えられたのですか。それは真の信仰の祈りであって,ダニエルが「神は慈しみ深いとともに罪を裁かれる」と信じたからです。
主はあなたの祈りの全てに答えたいのです。嘗(かつ)てなかったように祝福したいのです。あなたに求められるのは神の言葉を、罪についても含め、全て信じる事です。神に自分の祈りを妨げる罪があるか訊いて下さい。あなたの兄弟姉妹との間を正しくしてください。そうしたら、あなたは神があなたの祈りを聞かれる事を知るでしょう。神は速やかにあなたのところに来られるでしょう。
(兼小路ヨハン訳 加藤誠彦編集 口語訳使用 May 21/2003)
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